#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

脅迫観念

生きるためには敵が必要である。私にとっての敵は家父長制だ。家父長制さえなければ正当化されてる搾取の加害者になる恐怖もなくなるだろう。家父長制があるから我々は異性(家父長制の下で異性として粗雑に定義されるもの)との関係は恋愛かセックスか搾取かしかないかのような振る舞いをする。正確には各々の関係の中で固有の関係性があるだけなのに、あたかも関係性がある一定値に収束するように見せかけられる。その規範の外側はありえない。なぜなら家父長制があらゆる関係の脱私有化とパターン化を推し進めるだけではなく、関係に対する認識もパターン化されるからである。その認識はもはや身体となっている。もはや実はそれは異性間の関係だけでなく、同性間やあらゆる人と人、さらには事物との関係においても我々は主従関係を基底とした認識を身体に取り込んでいるのである。家父長制の支配の下で全ての関係は連続性を分断され、その有効領域をスクリーンされ、他者は搾取されるか搾取するかの対象でしかなくなっている。いや、そうでなくとも、少なくとも、あらゆる関係性についてパターン化されたどれかであるはずだという念慮を強いられているのである。家父長制に潜在的に暴力的である存在であることを諭され続けているという恒久的苦しみがここにある。