#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

セカイ系という名のタトゥー

自己理解のループ

セカイ系」の一つの誤謬はその閉鎖的で狭小化された世界が理解可能な範囲であると錯覚したことにある。鏡写しになって現前するセカイと「ボク」の相似性、「キミ」と「ボク」の相似性は世界や他者を見つめ直して自己を理解しようとして抱く欲望を具現化したものだ。手の届く範囲にあり、「ボク」の理解の範疇で全てが構成されているという仮定のもとにセカイ系は表現される。他者を媒介として自己を理解することを目的とする中で「ボク」は不安定で終末的な自我と対峙していく。果てしなく襲来する外部からの攻撃や無限に続く時間ループは自我の深みにはまり、答えの定まらない苦痛を表現する。

フィクションの世界においてさえ、セカイを見つめ続けることによる自己理解への挑戦は今となってはほとんど失敗したといって良いのではないだろうか。逆に言えば、「セカイ系」に没入し続ける限り、果てしない他者理解と自己理解の終わりのないループが追いかけてくるはずだ。

 

他者理解という虚無

私達は決して自己理解を目的としていなくとも、他者との関係性を有する中であらゆる場面において他者を理解することを必要としている。今や人類に染み付いた科学的な手法では他者を分類したり、抽出した要素に従って統合したりする。

例えば他者は特定の要素に対する自己認識の範疇と外部に向けられた認識の範疇を越境する存在として、あるいはマジョリティとマイノリティを越境する存在として顕著に現れる。抽象化されたあらゆる要素が多様化し、そして多様性が可視化されるにつれてますます他者理解の困難さが顕になってきた。SNSのプロフィールに書き込まれる単純化された自画像やSNSの運用方法としてパラレルに複数のアカウントを持つことによる各「アカウント」の単一指向性が錯覚させてしまいそうになるのであるが、背後にある生身の人間という複雑怪奇な存在が消失した訳ではない。

しかし、他者ひいては自己の理解不可能性が顕著になればなるほどに、身体に刻み込まれた「セカイ系」のマインドは理解への渇望を強くする。たとえ他者理解の敗北を自覚したところで、この無限ループが途切れるわけではなかった。

 

男性性

セカイ系」で表現される「ボク」という一人称代名詞が強くジェンダー規範の影響下に置かれたものであることは明らかである。つまり「ボク」の視点で語られる「セカイ系」に表象される全てはヘゲモニックな男性性の支配下に置かれている。観念的な領域では、閉鎖的で円環する時間的ループの表象は受胎の伴わない自己再生産の範疇である。生と死が繰り返される豊饒な世界観では決してない。そしてこの世界の中では「設定」という支配的なキーワードを介して父権的な絶対的唯一神(時には「ボク」あるいは「キミ」として現前している)があらゆるものを法的に規定している。理解しようという仕草そのものが、産業革命以降科学が自然を超克せんとするがごとく、支配的なものである。これが「セカイ系」に内包されている男性性の正体ではないだろうか。理解するということは傷つきやすく不安定な存在として客体化され記号化された〈美少女〉に精神的に同相にある自己が投影され、融合することで永続的に不安定な内面の世界からの解脱を図ることである。重要なのは私(たち)には「セカイ系」というフィクションを通して男性性というものが身体に刻印されているということだ。もっとも、この男性性はそのまま消費者男性だけでなく消費者女性にも刻印されていることだろう。

しかし支配的な他者理解が直ちに悪辣で暴力的なものになるとは限らない。事実、理解したり理解されたりといった認識によって個人を救済することは大いにありうる。暴力性を帯びるのはとりわけ他者理解を標榜した他者支配が全面に現れる時である。または自己理解とそれによる過度な自己規定によって自己を支配してしまう暴力もありうる。つまり自己再生産しか進展の方策がない閉鎖的な法秩序と他者理解への無限ループする欲望に対する自己統御により暴力を回避する必要がある。

モテること

こうして身体に刻まれた男性性が支配的な要素を内包した他者理解を欲望するということは「モテる」ことへの欲求と接続される。単刀直入にモテることは自閉的なセカイからの救済の道であると言ってもよい。言い換えれば、男性性に支配されたセカイの中で自我に没入する自慰行為から逸脱しなければ「モテる」(=救済される)ことはありえない。これがかつて「セカイ系」に没頭し身体を形成していった私(たち)に突き付けられた課題ではないだろうか。「異世界」に迷い込む前に。

しかしながら身体に刻み込まれた「セカイ系」はタトゥーのように容易には消すことのできない代物である。「セカイ系 」からの逸脱がモテることへの道筋であるにも関わらず、「セカイ系」そのものの特性である閉鎖性が逸脱行為を阻害する。もはや方向性としては「セカイ系」やその法秩序たる男性性を超克して逸脱するのではなく、受容しつつ支配的な他者理解の欲望を暴力性を回避するよう自己統御する他ないのではないか。ここで言う男性性とは個人的な身体性を形成する男性性ではなく、超個人的な「セカイ系」の正体たる一般化された男性性である。

他者理解という暴力に近接しうる欲望を見つめ直し、自己も他者も到底理解の範疇の外部にあるというような達観も必要なのではないかと思う。「モテる」ことへの欲求から解放されることは当面ないだろうから。