#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

夢で逢えたら

では夢における出来事と深層心理について一般化してみる。一見非合理的な夢での出来事に対してあえて合理的解釈を試みる。その中では他者に仮託された自己の欲望と葛藤があるのではないかという前提を元に進める。つまり夢の中に出て来る他者は自己のその人物への解釈の範囲内にしか存在しない。そして他者との関係性の中で欲望が顕在化するのではないか。欲望の延長線上には望んだ事象があるが望まない事象は欲望の延長線上には存在しない。すなわち何か夢の中や現実での不条理な出来事に遭遇したとき、逆を辿ればそれが望むことであれば欲望という根源を辿ることが可能であるが、望まないことならば解釈は求められない。人は不慮の災害よりもむしろ不慮の報酬に対して懐疑を抱くものなのではないだろうか。生存という恩恵の起源となる創世記には強く関心を抱く一方で終末には漠然としか考えていない。太陽神を祀ったりクマ送りの儀式を行うのは混沌たる自然からの報酬に対する因果について納得のいくストーリー展開を求めるからだ(クマ送り:森から来たクマを神様として丁重にもてなすと食物を携えて戻って来る)。

主体を自分として事象A(成果)ならば事象B(報酬)という世界が構築されているとする。事象Aのカテゴリーには自己実現や生き方、社会的地位などの概念が入る。事象Bのカテゴリーには欲望と結び付いた報酬が入る。社会的であろうと個人単独であろうと二者間のみのものであってもいい。ここに自己都合のイデオロギーが隠匿されている。「事象Bのためには事象Aが必要である」あるいは「事象Aの対価として事象Bがある」という風に、ご都合主義的な解釈が潜んでいる。これは広く見れば社会構築的に個人の中で成立したものかもしれないし、局所的な個人間に焦点を当てれば純粋に欲望とその対価の関係性を解釈できるものかもしれない。後者について言うと、夢の中で自らが他者に仮託しているその人物の心理状態というのは自らの欲望の帰結であるから、そのために必要な対価はその心理状態への直接的なアクセスではなく自らの手で直接的あるいは間接的に成し遂げた成果である。因果が不明のままに到達可能な他者との関係性の構築は不安の種でしかない。しかし重要なのはこれはイデオロギーでありフィクションであるということだ。現実に成果/達成と報酬が結びつく筋合いは必ずしもない。社会的な契約の概念から確実性を持って結びつくものもあればそうでないものもある。因果関係というのはその報酬が純粋に欲望に接近すればするほどフィクション性が強くなるのではないか。事象Aに固執すればするほど事象Bが神格化される。事象Aをクリアしたにも関わらず事象Bに手が届かないとすれば、これがご都合主義のフィクションだからである。メランコリックな軋轢はここから生じる。回避は可能である。多元構造にすれば良いのだ。事象Bへの対価を事象Aまたは事象A'…というように別のストーリーを接続していけばよい。ある意味でフィクションであるところの効用でもある。しかし難しいところは意識的にズラされた前提条件に対して報酬が変性している可能性も想起されることである。欲望自体をコントロールできないので。いずれにしろ行動原理と生きる意味解釈できたと思う。何も間違いはなかった。