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日常系ゆるふわ思い付きブログ

笑いについて

緊張と緩和

笑いの要件として緊張と緩和という理論がある。張り詰めた空気の中で発生する安らぎが場を和ませ、その空間を笑える場に変容させる、そんな瞬間がある。何と何が緊張関係にあり、それらの関係が緩和するとはどういうことなのか。

私達が現実と捉えているようなものは個人の認識や主観によって制約を受けている。現実は認識の内部にしか存在しない。他者とのコミュニケーションは認識のさらに他者との交換可能な部分、すなわち共通認識を基礎として行われる。さらにこれを二者間だけのものではなくて、数多の他者との共通認識へと拡張することもできるだろう。この共通認識の領域を仮に「常識」としておこう。常識は社会的通念として概ね強固に定められているのに対して個人の主観にはばらつきがある。さらに、虚構世界=フィクションとあれば制約を受けていた現実の範囲は度外視され、常識や個人の主観からは逸脱した無秩序で不思議な世界さえも構築できるようになる。

緊張関係にあるのは常識や個人の主観などの現時点で認知されうる領域とそこから逸脱した地点だろう。場を張り詰めるにはまずこの逸脱が必要である。いわゆる「ボケ」である。緊張のまま放置すれば不思議な空間、あるいはそれが過ぎると恐怖すら顔を覗かせるような場に留まる。この状況で笑いを誘発させるには緩和が必要である。逸脱した地点の常識からの相対位置が解明され、認知において理解される瞬間に緩和が起こるのではないだろうか。常識が逸脱した地点を包含するように拡張されることによって空間を支配していた緊張は緩和される。不思議なものが放置されていた空間を常識の内部に組み込むことによってその逸脱が理解されるものに変化し、不思議さは取り払われる。この解明という行為がいわゆる「ツッコミ」である。そして拡張された常識の外部にあるさらなる無秩序な空間に次のボケを投げかけ、ツッコミによる解明と認識の拡張が起こり、常識はそのフィクション内部において連鎖的に拡張される。このようなメカニズムで緊張と緩和が繰り返される限りにおいて笑いが連鎖していくのではないだろうか。

 

シュール

しかし一方で、緊張を緩和するにあたりツッコミは必要であろうか。自身の持てる認識あるいは主観の領域と逸脱した地点との相対位置関係を自らが解明し、自らの認識の範囲を拡張することは不可能ではない。あくまで認識の範囲を拡張するのは自己の内部においてである。ツッコミは補助なのだ。不思議なものと対峙した時、その空間が恐怖へと変容する前に取れる本能的な手段こそが笑うという行為の意義なのではないだろうか。その瞬間の緊張を緩和させて笑えれば恐怖は取り除かれる。しかしもし第三者によるツッコミが期待できないならば、そこには不思議なものと自らの認識領域しか存在しない。第三者不在の状況の中で自らの認識を拡張できるのは自らが自らの認識をそれが認識であると自覚したとき、すなわちメタ視点に立ったときではないだろうか。例えばその逸脱した空間が演者によって演じられており、自らはその観衆であるとき、観衆はその空間内の没入から離れ、観客であると自覚することで状況を理解し、緊張を緩和するのである。

この構造を作用させる空間こそが「シュール」と言われるような空間ではないだろうか。強固に定着した常識ではなく、一人ひとりの主観によってその緊張が緩和されるかどうかが委ねられることになる。笑えるかどうかということにおいてリスキーである一方で、主観がより客観的な外部の方向に拡張される快感をもたらすのではないだろうか。