#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

逆張りの定理

Yさんの事例。

物心のついた頃から両親は不仲であったという。妹がおり、長男である彼はまさしく“長男”として育てられた。幼少期から活発で、サッカーや野球などのスポーツが好きな少年として成長していた彼の初めの転機は中学受験であろう。基礎的な運動には問題はなかったが体格的に不利を感じていたスポーツと比較して受験勉強は何の制約もなく没頭することができた。成績は思うように伸び、その分周囲からの期待も大きくなっていった。一方で公立中学に進学する周りの「普通の」人と自分を比較するようになった。特段、中学受験に進む気配のない妹とのそういった面での家庭内での扱いに差異を感じるようになった。ただ周囲の環境に従ってスポーツをしたり親の薦めで塾に通ったりしていただけなのに、あたかも自分だけが突然中学受験で親も期待していない程の大成功を収めた。この段階において彼は特定の文化基盤や思想体系のもとに行動を行っていたわけではなく、際立った思想は醸成されていないと言ってよい。他方、何処しれず周囲の「普通」に対する違和感を抱いている。

中学入学後はサッカー部に所属した。不仲な両親のもと、趣味を家族間で共有するなどということがなかったため特別な文化資本がある訳でもなく、ほぼ無意識的にポピュラースポーツに傾倒する。また医者や大学教授などの上流階級の息子が集まるクラスにおいて、中学受験する程には裕福ではあれど金銭感覚などから察するに客観的に“そこまでではない”彼自身の先程とは反対方向の「普通」に直面する。投資額(あるいは時間)と成績が比例するような中学受験において、驚異的な成績の伸びを経験したが故に、同じ学力で入学したクラスメイトのほとんど半分の資金で入学してしまっているということだ。上流階級に馴染むにはあまりにも「普通」だし、公立中学に進学した同級生(そして妹)からすると「普通ではない」という相反するカテゴリーに存在していたことを自覚していた。自分と同じ境遇の人間は少なからず在籍しているものの、ひときわ目を引いたのは比較的管理されて育てられているような上流階級の家庭出身の同級生の、明らかに普通ではない言動だった。そして彼は「普通ではない」彼らに魅了されていったという。繰り返しになるが、彼は公立中学進学組や妹とは対照的に既に「普通ではない」にも関わらず、上流階級の同級生との比較で得る自らの「普通」を参照軸としてさらなる「普通じゃなさ」に魅了され、もはや加速度付きとも言える心理状態である。「普通ではない」ことに対する神格化が萌芽していた。

しかし一方で、普通にポピュラーな部活動であるサッカーは良好な人間関係を構築できていたこともあり、2年間は活動が維持された。その活動にも陰りを見せたのはフィジカルの問題であった。技術的な精度ではカバーできない大きな壁があった。中学3年次、新たな新天地を求めてフィールドホッケーというマイナースポーツに転向する。サッカーで培ったポジション取りを活かせる反面、スティックを使うため直接的な接触は少しは軽減される。もちろん、スポーツでの活躍という打算的な理由だけではなかったのだが。フィールドホッケーの能力はそれだけの努力も相まって成功と言ってもよいだろう。ここで接触を避けるポジション取りやチームメイトの誰にも真似できないシュートの一芸を覚えたという経験は、身体的特性を逆手に取って差異を際立たせる生存戦略であっただろう。しかし接触というフィジカル面での問題は解消されたが、体格的に安定したパフォーマンスが発揮できないという別の身体的問題に直面することとなる。彼はこの問題を克服できずに運動部を去ることとなる。ここにおいてフィールドホッケーへの転向はやや「特殊な」マイナースポーツという領域での活路と身体的特徴を克服すべく取った生存戦略としての差異化戦略での成功例の二つを彼自身に与えた。他方、それでも克服しきれない身体的問題は浮き彫りになった。

別の側面として彼はアニメオタクでもある。幼少期から連続的に視聴していたという訳ではなく、後天的に中学生の後半からアニメに嵌っていた。運動部として活動しながらもアニメオタクであるという旧来的なイデオロギーにおいては相反する集合が重なるちょっとした普通じゃなさに自己陶酔していた。コンテンツそのものよりも、「メタ的に」(メタという態度自体が「普通」から逸脱したがるセカイ系主人公の常套的態度である)そんなポジションにいる自分自身に陶酔していたと言ってよいだろう。さらに心理状態は加速してゆく。百合という(当時でこそそうなのだが)マイナージャンルに傾倒してゆく。当時のネットミーム、いわゆる「俺の嫁」のムーブメントに抗うようにして「反俺の嫁」としての百合ジャンルであった。「普通」としての異性愛に疑念を表明したかったのであろう(あくまでも当時の彼の見解である)。そして百合漫画が並ぶ本棚に対する親の不理解はますます彼自身を特別な存在というナルシシズムへと押し上げていった。スポーツ以外、こと精神性の領域において別の文化資本を手にした彼の行動は、克服しきれないスポーツにおける身体的問題を、一定の成果を収めた差異化戦略を用いて補おうとするような精神的チャレンジとしての実践行為であったのだろう。

高校生活の終盤で彼はとある漫画に出会う。その漫画の第4巻のテーマ(オムニバス形式であり、全体を通しての大々的なテーマの明示はされていないが)こそ普通への問いかけであった。心臓を貫かれるような思いがしたのだそうだ。大学進学後2年目には初めて人と懇意な関係となった。その人の「普通ではない」性格に惹かれていたし、「普通ではない」関係にお互いに陶酔した。二人の会話はいつも普通への問いかけのようだった。社会のこと、人間関係のこと、そして性のこと。「普通ではない」関係の構築は、彼にとって普通だと思っていたものの解体と、新たな普通の再構築を意味した。その関係性が深まるにつれ、彼の心理状態は周囲がもつ「普通」とは異なる「新しい普通」を再構築した状態となり、それを解する彼自身は他ならぬ全能感を得た。そして新たに二人だけの世界の「普通」を再構築すればするほど関係性は「特別」なものになるような気持ちがした。もはや再構築こそが差異化を昇華させたような新たな生存戦略となった。単なる平行移動的な差異化戦略を次元変換的な手法へとまさに再構築したのだという。ここでの再構築は旧来の「普通」への疑念を抱くことから始められる。疑念を抱くことこそが逸脱の契機であるという。

現在、彼はあらゆるものからの逸脱を自然と志向してしまうのだという。両親の不和、懇意であった人間関係の崩壊、自らの身体に課せられた運命、社会や将来への不信…そんなありふれた至極「普通」な人生からの逸脱こそが彼を救済する手立てなのだという。どのような時も恵まれていたであろう彼のこれまでの人生では、彼自身の立ち位置を「普通」と定め、「普通ではない」別の場所を目指すことで一定の成功を上げてきたと同時に救済を求めてきたのだろう。いつか彼は普通に生きられるのだろうか。