#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

反出生主義者のユートピア

同性愛的表象と異性愛的表象

人と関わってわかったことは私には異性愛がわからないということだった。どうしても異性というものを他者化して思考の範囲から追いやってしまうらしい。どうしてもわからないものを遠ざけてしまう。ならば異性と言えども人間として捉えるしかないらしい。同質性にしか目を向けられないしその範疇でしか他者を捉えられていないのではないだろうか。関係性においては人間として、異性愛というよりも友愛という形でしか結ぶことができないような気がしてくる。与える・与えられるというよりも感じる・感じられるという方が関係性として馴染む気がする。私の過ごしてきた環境によるものだろうか。

生物的に異性愛の表象するのはつまるところ物質的交換や贈与である。もしもその先にある再生産を目論む訳でないならば身体的に異性であろうが同性であろうが物質的交換や贈与を行う必要がない。そうするともはや残された本質は友愛で十分である。

二元的に分化された生殖機能において同性愛が物質的交換や贈与を行うことは不可能である。異性愛が互いの不足した部分を補うような非対称性であるならば同性愛の示すものは対称性あるいは対等性である。断っておくまでもないかもしれないが、「受け攻め」の概念も異性愛からの非対称性の輸入にすぎない。人間の身体を二元に区分してその組み合わせに応じて生産性を議論したいのではない。交換や贈与のない対等性を礎とした愛は可能であるのか、ということだ。同性愛的、異性愛的、と表現したほうが良かったかもしれない。私は関係性の連帯や他者との接触において物質交換ではなく、意味の伝達がしたいのだ。そんな反出生主義者のユートピアを妄想する。

 

物質と意味

言語というのは言語学的に言えば記号とその記号と結合した意味の総体である。ひとつの言葉は文字や音、動作といった形のある、物質化された記号と観念的な意味に分離できる。複合的に言葉を用いれば意味は記号という物質的制約から一時的に解放され、拡張されうる。

例えば「消火器」という言葉から「噴射式のアレ」をイメージするとしよう。「消火器」という言葉を使用した瞬間に物質として「噴射式のアレ」をイメージし、意味として「火を消す」などの機能や性質を付帯させる。では火を吸い込む式の「消火器」が開発されたとして、それを消化器として認めるだろうか。「火を消す」という機能を保持している限りはそれを「消火器」と読んで差し支えないだろう。それは物質として変化したとしても機能という意味を保持しているからだ。では、「ペン」は「消火器」か。何らかの書類上の審査を経て火を消すことがあるような場合があるとすれば間接的にでもペンが火を消すことはあるかもしれない。故に「ペンは消火器である」と主張することは可能である。あるいはペンが直接的に火を消す機能を有していないという理由で「ペンは消火器ではない」と主張することも可能であろう。つまり本質的に文字や音や動きのような記号は意味の下位にしか存在しない。「消火器」に「ペン」を代入することは意味の領域を介して可能であったり認識がそれを許さなかったりする一方で、単に記号としての「消火器」を「ペン」と置換することは不可能であるからだ。もしも「消火器」という記号を意味と切り離して「ペン」という記号に置き換えると、(共通認識が変化すれば厳密には不可能ではないが)たちまち混乱が生じるだろう。意味を代入する方が物質として記号を交換するよりも自由度が高いのだ。

記号は物質であり、意味の制約でもある。私達も観念と物質の両義性を持つ存在ではないだろうか。私達個人の物質としての存在は他と代替され得ないとしても、観念上の意味における私達個人は代替可能であれば拡張されうるものでもあるのではないだろうか。そして物質はおそらく私達の制約である。ジュディス・バトラー的に言うと、私達の存在領域はせいぜい皮膚より内側のみなのであろうか。

 

反出生主義者が連帯すること

反出生主義というのはもはや再生産のカルマに与しないというだけのことを意味しない。国家規模で語るならば再生産というのは列強思想や競争のイデオロギーに結びついているものだ。個人規模では再生産そのものによる幸福への追求もあるだろう。もちろん否定されるものでは決してない。しかし反出生主義者が抱く再生産への嫌悪というのは再生産に結びついた物質的豊かさへの慾望に突き動かされた闘争本能や支配欲求に抵抗するようなものではないだろうか。反出生主義者の夢想するユートピアはつまるところ物質あるいはその慾動(物慾=エロス)に支配された自我を解放するような世界ではないだろうか。異性愛的な物質の交換や贈与の関係性に与するのは再生産の輪廻に与することすら含意するだろう。物質への慾望から解放されるには物質性あるいは身体性からの解脱をしなければならないのではないか。反出生主義者が夢想する愛の形は物質の交換・贈与ではなく、物質から解放された自我における意味の交換であろう。

他方、所詮そのようなものはユートピア的幻想にすぎないのかもしれないという疑義にかけておいてもよいだろう。どうして他者との関係性が脱物質化された意味においては可能であると言えようか。そもそも他者との連帯を慾望しているではないか。それは本当に脱物質化されているのだろうか。記号を介さない意味の伝達など幻想に過ぎないのではないか。脱物質を夢想する反出生主義者が連帯を慾望することの矛盾はここにある。

反出生主義者たるもの再生産を否定しさらに物慾も己の身体すらも否定せよ、とまで言うと相当シビアなものになろうが、おそらくはそれは不可能である。この世に生を“受けてしまった”時点で何らかの生態系に参与しているし、何らかの関係性は構築されてしまっている。存在までは否定できない。

しかし、同性愛的な対等な意味伝達を可能とする関係性というのは反出生主義者の夢想する慾望の解放への兆しではないだろうか。事実、生物的にプログラムされた機能として我々に取りうる手段は別個体として再生産をするかしないかのみである。残念ながら核分裂のようなもので自己を複製することはできない。その意味で物質的・生物的・身体的制約がある。意味を制約する物質性を自己から切り離し否定せよ。達成されることはなくとも他者との関係性の中で意味伝達を繰り返すことで私達は代替可能で拡張されうる意味として昇華され、物質性からは切り離され、慾望からも解放される兆しが見えるのではないだろうか。見えなくとももはやそうするしかないのであるが。