#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

知るかバカうどん

私がこれまで詐欺や暴力事件やその他犯罪に巻き込まれていないのはおそらく文化資本による見えないバリアが存在するからだと思う。一つに無難な選択を取る文化、一つにほどほどにしておく文化、一つに立ち止まって考える文化というような身体化された文化資本を持っているのである。これはそういった文化資本が後天的に得られるものであるという仮定をしているのだが、実感として犯罪に遭遇する確率は階級に有意に差があるように思える。階級および階級に従って増減する文化資本の量によって犯罪に遭遇する確率や犯罪の種類に差があるのではないだろうか。ここで遭遇するというのは犯罪を実行する意味においても犯罪に巻き込まれるという意味においてもである。

犯罪という法に決められた範囲だけではない。暴力という境界線の判然としない領域においても同様に個人の資本によるバイアスが存在するのではないか。問題は善良な個人が暴力とは無関係であるという自覚が適正であるかということである。暴力に関係する層とほとんど無縁(あるいは無縁であるかに見える)の層の分断はどこから生じているのだろうか。

現代では多様性を生かしながら共存していく社会というものが広く啓蒙されている。多様性とはどこから来たものだろうか。ミスリードが起こっているとすれば多様性なんて今になって生まれたものではないということだ。今になって明るみに出ただけだ。あるいはまだ明るみに出ていないものもあるだろう。生物の構造自体、ランダム性が組み込まれているものであって、社会に人間の身体や思考体型がコミットしていって多様性を生み出しているわけではない。多様性というものを誰かが定義しようものなら、すなわち多様性というものの意味は解体され、自己矛盾をきたす。多様性という語を用いた恣意的な分断工作はありえるのである。

私はどうしてこうも息苦しいのだろうか。要因すらもわからない。どうして私はいつか誰かを傷つけるかもしれないような自分の暴力を想像して怯えているのだろうか。なぜ私のまわりの人間は暴力を振るわないのだろうか。こんなにもどうしようもないのに。

人間の文明は生産と拡大を欲望の目的として発展してきた。前者は性に関することとして、後者は領土に関することとして人間の同種間競争の争点として扱われてきた。いずれも欲望の対象であり、それ故法によって縛られる対象でもある。あるいは前者はセクシズムを生み、後者はレイシズムを生む。人間の文明はセクシズムもレイシズムも生かさず殺さずバランスを維持しながら発展してきた。同種間競争という生物的な宿命から逃れられない以上、セクシズムからもレイシズムからも逃れられないのだろう。しかしその宿命からは逃れられないとしてもその構造的支配に注視して絶えず適応的な解を求めていくという作業もまた生物に課せられた永続的な宿命である。進化論的には淘汰のシステムから逃れることは出来ないが、同時に変化からも不可避であり、それは生存本能に組み込まれたプログラムである。

では現代の構造的支配と個人的な息苦しさにはどのような相関関係があるのだろうか。先程述べたように、多様性すなわち多様な生というものはもはや定義されない。日本語で「生」という漢字には様々な読み方があるが「死」という漢字には一通りの読み方しかない、というような話は使い古されているが、まさにこれは妥当である。つまり死は限りなく一義に近いところで定義されうるのである。死を定義することによって逆説的に生を浮かび上がらせているのが社会の構造ではないだろうか。その死を意味するものはかつては奴隷であった。さらには男系文化では家系図から排除され名前をも奪われる女性であった。現代においてこの構造は変わったのだろうか。現代におけるいわゆるマイノリティと呼ばれる人たちはどうだろうか。移民、難民、ホームレス、失業者、引きこもり、そして女性。もちろんこれらのカテゴリーに属するからと言って処刑されるという訳ではない。内実はもっと残酷かもしれない。これらのカテゴリーは死というラベリングをされながら生かされるのである。その他の生の規範を維持するために。一般に生の側であるからと言ってカテゴリーを差別するということはない。善良な大多数と少数の悪人で構成されるだろう。そして現代では少数の悪人の監視は政治権力などではなく、善良な市民に委ねられている。死のカテゴリーを維持し、封じ込めるために生の側にいるいち市民はその監視の目をかいくぐってまでそれらをカテゴリーとして差別するということをしない。これがある程度の水準まで文化資本が達成されていることの意味である。一方で自己の生存権を維持するためには、もしくは自己の生存権を揺るがす要因を排除するためには、自己を死から遠くに配置する必要がある。紛争地に赴くジャーナリストに浴びせる自己責任論は自己と死(この場合紛争というリアルな死に直結するものだが)を遠ざけるバイアスに駆り立てられたものだし、都市部の公園や郊外の大型ショッピングモールや高級住宅街がホームレスや貧困層を地理的に排除するのも同様である。ここではカテゴリーを理由として排除することはせずにカテゴリーと犯罪を結び付ける。よく報道ではマイノリティと犯罪者を結びつけようとするが、属性として表出されないマジョリティと犯罪者が結び付けられないという事実の裏側でしかない。マイノリティであることが犯罪を引き起こしている訳ではない。移民、難民、ホームレス、失業者、引きこもりなどを犯罪者化あるいは精神疾患(女性は合理性よりも感情でものを判断するという言説も精神疾患とする言説に近い)とでもすることで排除するのにも精神的にも苦しむことはない。人を排除する暴力というものはこのように生の側を生きる者たちによって常になされているものなのだ。

他方、カテゴリーによって犯罪者化される所以はないのだが、有意に犯罪に遭遇する確率は高いというのは事実としてあると思う。犯罪といっても他者をコントロールしようとする暴力性のあるものについて特に焦点を当てるが、排除される暴力に晒されてきた人たちにとって暴力そのものが文化圏に取り入れられているのではないだろうか。「暴力とは、自分自身によって仕方なく自分自身に対して仕方なく振るうものだ(ジュディス・バトラー)」という言葉があるが、これは自分の置かれた構造、すなわち自分自身に対して仕方なく振るっている暴力とも言える。自傷行為をするジレンマでもある。結果的に犯罪者化されるとしてもそれは構造上止む終えず自分自身に対して為された暴力が犯罪として表出したものではないか。社会的構造が先ず存在し、文化が肉付けされている。文化に覆われた可視化されていない構造に目を向けることは必要だと思う。そして嫌でも変化しなければならないのだ。