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日常系ゆるふわ思い付きブログ

なぜジェンダー論は難しいのか

個人的な話

個人的な話だが、2000年代後半、アニオタ高校生だった私はいつからか百合(ガールズラブ)作品ばかりを狂ったように見るようになっていた。ライトノベルの隆盛でハーレム系のアニメが増産されていたり、「俺の嫁」というようなミームが流行していた時代にお得意の「逆張り」精神が働いていたのと二次元ではあるがどこか性を搾取しているような感覚に嫌気が差していたのだった。ひとまず異性愛中心主義からは距離を取って、同性愛に理想を抱いていた高校生時代。それはともかく私の中でジェンダーへの意識が根付いて行った時期である。百合作品においてはやはり完全に創作ということはあり得ず、リアルなセクシャルマイノリティの現実を描写したものも当然存在するし、何よりtwitterにいる百合作品を嗜好するいわゆる「百合クラスター」たちの中にも実際に社会の中で置かれているセクシャルマイノリティの問題を吐露する人も存在していて、現実のものとして認識されて行った。また、当時は百合というジャンル自体もメインストリームからは周縁化されていたと思う。そうやって作品内で擬似体験したり現実との繋がりを持ったりしてセクシャルマイノリティの問題に少しくらいは触れていた。
さらに自分の話で申し訳ないが(ジェンダー問題においては、マイノリティだけの問題というのではなく、シスヘテロ(性違和のない異性愛者)である私個人が当事者として語る文脈は必要だと思っている)、大学に入って文化人類学の授業で「なぜ多くの有生生物の性は3つや4つではなく2つなのか」という命題を耳にしてかなり衝撃を受けたのを覚えている。考えたこともなかったのである。当時、周りのシスヘテロ男子よりは幾分かセクシャルマイノリティに理解があると自負していた自分にとって、性を二元論のまま考えていたという事実自体が異性愛中心主義の文脈でしか語り得ていなかったということに気がついたという衝撃は大きかった。「なぜ性は2つか」という問いは「赤の女王仮説」という進化生物学の理論で説明されているらしく、早速amazonで注文して読み進めてはみたものの、遺伝や生物学の知識の乏しい私にはかなり難解であった(実際幾度となく挫折し、購入から7年後に一応は一通り読んだ)。しかし、生物学的な二元論の意味を少しくらいは理解したところで社会的なジェンダーというものを考えるのには程遠いように思えた。
時は2020年になって(「赤の女王」をやっと読み終えた)、関東に引っ越して心機一転、マッチングアプリを使うようになった。そこで承認されるということがどういうことなのかという問いに直面することとなった。もしも簡単に承認が得られるようなら承認について考えることもなかったであろうが、マッチングアプリ(婚活の一つの形態)は承認の獲得競争であり、明確に勝敗が別れるものであり、承認への欲求が毀損された経験に基づいて承認論に手を出すに至った。百合というジャンルがメインストリームから離されてサブカテゴリーに追いやられていたということも承認の問題と地続きである。


承認論
前置きは長くなったが、ジェンダー論の前に密接に関わる承認論の概要を示しておく。まず承認とは価値評価を前提としているということだ。ホネットが言うように「我々の世界に対する態度は価値評価含みで、関心によって駆動されている」。つまり単なる知覚の段階から承認という価値評価のフィルターを通して認識が生まれるということだ。承認なく冷静で客観的に物を見るというのは対象を物象化して疎外しているに等しい。「関心の節約」という言葉があるが、我々は選択的に関心を向けたり向けなかったりすることで逐一価値評価をするということから逃れているのだ。そして承認とは自由と束縛の間で揺れ動いている。他者から承認を得るという関係構築は同時に相手からの束縛を受けることも意味する。他者を自分の支配領域になく自律した存在であると承認した上でその他者から承認されることによって、自らの承認欲求は満たされるのである。主体性を保ちつつも関係の中で被支配的でなくてはならない。これは承認をめぐる闘争と表現されている。さらに承認の3つの類型についても語られる。まず1つ目に「愛」という形の承認である。個人間で他の人間とは異なるという差異化によってその価値を承認するものである。2つ目は「人権尊重」という形の承認である。こちらは逆に人として差異なく認められることである。「愛」も「人権尊重」も人間の共同体の中で生活するには必要不可欠な承認であることは自明である。そして慎重な議論が必要となるのは3つ目の業績評価に関する承認である。フェアな評価をされるというものだ。しかし厄介なのはこの類型が能力主義の中でしか語り得ないということである。ジェンダーやその他あらゆる格差や差別が固定化したままの現状の資本主義社会を正当化することにもなりうるという危険性を孕むのだ。商人の問題はセクシャルマイノリティが社会から不可視化されて排除されてきた歴史(黎明期の同性愛作品は「タブー」の意識や異性愛中心主義から借用される形でのみ性的関係性が描かれることなどがあった。)や入学試験の点数が意図的に操作されていた問題などと関連することは容易にわかることだろう。
正直に言って、私がジェンダー論や承認論に手を出すのは自分個人が承認を得て幸せに暮らしたいという不純な動機でしかない。ゴールはそこなのだけれど、やっぱり社会の中で不当な差別が存在する中で、社会の中にいる自分個人が幸せを享受するだけでは本当の幸せとは思えないという時点で避けて通れないように思う。誰かが息苦しい世の中は自分にとっても息苦しいはずで、そのことを認知しているかしていないかだけである。認知をしてしまえばそれだけ損ということにもなるが、息苦しさに気づかずに息絶えているよりは多分マシだと思う。


なぜジェンダー論は難しいのか
話を戻そう。なぜジェンダー論は難しいのか。なぜジェンダー論に複雑なイメージを抱くのか。実際複雑ではあると思う。アプローチの方向が多様すぎてどういう要素が絡み合っているかが見えにくくなっているのではないだろうか。そして誰もあんまり説明してくれない。
まずフェミニズムというものについてのとっつきにくさはあると思う。特に私みたいなシスヘテロ男性はマジョリティというだけで批判の対象になっていることはよくある。あからさまではないがマジョリティなシスヘテロ男子にはわからないよ、という扱いを受けたことも実際にある。もちろんいろんなフェミニズムの流派や団体があるのだと思うが、首を突っ込むためにはマジョリティ男性なら批判に晒される覚悟がないと厳しいのではないかというのは率直な感想だ。男性による抑圧の歴史を鑑みれば致し方ないとも言えるかもしれないが、二元論と排除で語られるならばフェミニズムに価値を見出しにくいというのは現代のフェミニズムに対するバックラッシュだろうか。社会運動としてサブカルチャーから発生したことからも、ある種サブカルチャー的な雰囲気の名残りは感じられるもので、あまり多くを語らず、わかる人にはわかるけどわからない人にはわからないよね、という風潮は実際あるのだと思う。


フェミニズムの功績
とは言っても歴史的にフェミニズムが何を成し遂げたのか説明しないと現代の問題に行き着かない。日本では1999年に「男女共同参画基本法」が成立し、女性の労働が推進された。これは少子化の進む資本主義の中で労働力が必要とされる背景も加味されていることも留意しておきたい。「参画」が推進されただけであって「反差別」なんかをすすめるものでもなかったという点も重要である。しかし何にせよ女性は労働によって対価を得る権利を獲得した。一部では「家事」や「育児」などの無償労働から解放されたとも言える。フェミニズムは女性の労働力としての価値を認めさせることに成功したのである(ある意味で「人権尊重」の承認を得た)。


資本主義との決別
しかし現状がそうであることからわかるように問題が解決したわけで全くない。フェミニズムを「女性のための…」という切り口で始めるとするとやはり違う。もっと広範に社会から排除されてきた集団のための社会運動と考えた方が良い。例えば二元論的な切り口で語ることはセクシャルマイノリティを排除しかねない。抑圧や排除からの抵抗運動だったはずのものがさらなる排除を生み出すのは間違っている。したがってセクシャルマイノリティなど様々な人々が社会から排除されてきたところから可視化され、権利を得るというのが妥当な社会正義だろう。このことについても個人発信が可能なインターネットの普及もあり、一定の成果を挙げているとみなせそうだ。しかしここでも問題は単純ではない。社会進出を果たした女性にしろセクシャルマイノリティにしろ現代の資本主義の枠組みの中でしか活動することはできていないのである。資本主義の枠組み自体が男性中心に構築されたものであり、競争や生産のスキームに従ったものである。資本主義の構造をそのまま肯定し保持し続けることは異性愛中心主義や女性の客体化をそのまま肯定し保持し続けることに他ならない。それから、女性やセクシャルマイノリティが資本主義の労働の現場に組み込まれはしたものの、それは個人の選択という形で落とし込まれていった。パートナーとして承認されるためにセクシャルマイノリティが自らカミングアウトするかどうかや女性が家事・育児と外の仕事のどちらかを選ぶという仕方で個人が内的な問題として落とし所を探り当てて資本主義社会に参画していくのが関の山なのである。選択というのは権利としては当然守られるべきもののようにも聞こえるのだが、社会の中でもっと複合的に抑圧された人々などにとっては、選択という手段が必ずしも自由に手元にあるのかと言われればそうではない。自由な選択を落とし所にしている時点ではまだまだ強者の理論の範疇にあり、社会的な構造の方に本質的な改善の余地がある。


分断するフェミニズム
さらにフェミニズムといっても当然一枚岩なものでもなく、ポストフェミニズムというような社会進出後の女性問題(多様性の問題でもあるが)を考える動きもある。フェミニズムが女性の社会進出などの基盤を作り上げ文化的に成功をおさめたものの制度的にはまだまだ成功しているとは言い難い。セクシャルハラスメントや女性が従事する労働への低い評価は依然として存在している。それらに対抗する動きがポストフェミニズムとして持ち上がった。しかし、女性が主体性を持って社会進出するということはその主体性によって個別化するということでもある。「わたしたち」として括られることへの拒絶が生まれる。各個人は問題解決への文化的意識は持ちつつも制度全体に向けてかつてのフェミニズムのような一方向のアプローチができないでいるのが現状だろう。2000年代から「女子力」()という言葉が流行したように、一部では女性の身体的資産や社会的野心を掲揚して女性の地位向上を目指す動きもあれば、他方ではそれらは男性的資本主義のスキームの再生産であるとして批判される向きもある。昨今流行りの「婚活」に至っても「生産」の領域を逸脱するものではなく、男性が労働によって社会的地位を獲得するのに対して、女性は婚姻によって社会的地位を獲得するといった非対称性を保持したり、身体(年齢)や「家庭的」能力の商品化を維持したりするものであるという批判もある。さらに、援助交際は根絶しないし、「パパ活」として女性が自らの意思で金銭と自分の価値を交換しているということにしてみてもやはり社会的立場の非対称性が浮かび上がるのみである。しかし、それらは個人的な承認への闘争や生存戦略としての手段でもあり、主体的に構造の再生産に営為している人間を単純に批判するというのもまた困難なのである。


性差という壁
そして何より現在ジェンダー論が行き詰まっているのは生物学的見解との整合性ではないかと思う。これまでジェンダー論で語られる文脈には社会構築主義が地位を確立してきた。ジェンダー論では社会のシステムや言語的規範から再生産される「女らしさ」と「男らしさ」があり、そこから距離を置くという方向性で議論がなされてきた。社会学などの立場から社会における性差が認知され論じられてはきたものの、さらにその根源的な生物学的な「産む性」と「産まざる性」という特性は多く語られることはなかった。いくら社会的な性差に対する知識を得たところで、生物として性に付随している特性は拭い去ることはできないというのは心理学や生物学で論じられていることだ。例えば男性はモノ(あるいはヒト)に対して所有するという見方をし、女性はヒト(あるいはモノ)に対して関係するという見方をするらしい。あるいは男性は審美的なフェティシズムをもって女性を客体化し、女性は自己に対するナルシシズムを発揮して男性に魅入られようとするという学説もある(『赤の女王』で論じられていた内容でもあった)。あるいはまだ社会化されていない赤ん坊がおもちゃに選ぶ物として人形かアイテムかという性差も報告されている。私自身がそうであるように、「男らしさ」から距離を置きたいとは願いつつも、なかなか簡単な話ではないし、そんなジレンマに悩んでいる人も多いのではないかと思う。しかし拭い去れないものには向き合うしかない。生物学的な性差が証明されたからといって構築主義で議論されてきた内容が無に帰すとはならない。性向として人に関係する職業を選択するのは女性の方が多いのならば、それを「女らしさ」として再生産するのを止める必要はなく、むしろ問題は女性が従事している職業における地位が低いことにあり、それを是正する方向性は変わらない。生物としての欲動と生産システムに支えられた社会性動物にすぎない人間にせいぜい出来ることは、真摯に人間に向き合うことだと思う。個人的なジェンダー論への契機として女性という未知なるモノ(客体)への興味というのも確かにあったのを思い出した。やはり我々は不純な思惑を抱えているものだし、ジェンダー論も何らかの不純な思惑を抱えているからこそこうして何重にもジレンマに囚われているのだろう。


やっぱり難しい
これまでの自分が見てきたものとそのモヤモヤについてまとめてみた。どう考えても難しい。こうして絡まっている要素を抽象すれば必ず捨象される要素も存在しているはずで、ここでまとめたものは一部にすぎない。だからと言って何も語らないというのは違う。複雑だと言ってそこで締めてしまうのも違う(「世界情勢は複雑を極めています」という空っぽの内容のまま締めるニュースを見過ぎている日本人にありがちな締め方で嫌い)。現代のフェミニズムが方向性は同じにしてもあまりにも個人化しているせいで競争になったり一方的な正当性の主張になったりしていているから批判を恐れて大層なことは言えなくなっている人も多いと思う。教えてやるよという態度も違うし馬鹿のフリをして話を聞きに行っても堂々巡りになるだけだ。複雑に構成されているからと言って見なかったことにはできないし、間違えていることもあると思う。必ずしも自分ではなくとも誰かが抑圧されているようなシステムを甘受したまま見過ごすならば、その時点で自己の人としての尊厳はすでに危機にさらされているのではないか。

 

 

【参考】
ジェンダーにおける「承認」と「再分配」:格差、文化、イスラーム / 越智博美, 河野真太郎編著
孤立不安社会 : つながりの格差、承認の追求、ぼっちの恐怖 / 石田光規著
「承認」の哲学 : 他者に認められるとはどういうことか / 藤野寛
    http://s-scrap.com/4978
    https://ohnosakiko.hatenablog.com/entry/20100522/1274531264