#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

LOOK

表情の乏しさを感じる。

表情はかなり多様な筋肉の出力を様々に組み合わせて作られるものである。物理的に言えば、人相という初期値からの変形量を筋肉の出力によるパラメータを変化させて作り出す。さらに、筋肉は学習能力を持ち、作られる表情というのは淘汰されてゆき、徐々に初期値である人相を作り変える。

なるほど、金属の塑性変形と少し似ている。金属は変形をさせていくと、弾性変形というバネのように元に戻る変形領域から塑性変形という永久的なひずみが残留する変形領域に移る。瞬間的な表情というのは可逆的で、元の人相に戻すことができるが、瞬間的な表情を蓄積させていくに従って、やがて人相は不可逆な永久変形となる。表情は人相という初期値と筋肉の変形から出力されるものであるから、それらによって表情の可能性は広がることにも限定されることにもなる。

作り出される表情というのは単なる履歴というだけではなく、付加価値であると言って良いだろう。ただの金属平板や円管が加工によって変形し、用途のある物として付加価値が付けられるように。そしてこれはかなり取り返しがつかないものではないだろうか。人間の脳はメモリの大部分を視覚野に割いている。個人が持つ情報というのは多かれ少なかれ視覚的である。人間は集団として社会を持ち、その中で地位や性格や思想というような非物質的な側面によって個人に対して認知するメカニズムを持つが、一方でプリミティブな動物であるという側面もあり、物質的で直接的な視覚による認知メカニズムも同時に存在している。視覚的なメカニズムは非言語でプリミティブであるが故に冷酷なものである。私達は言語を発達させる以前から表情による意思伝達を行っているのであり、思考が言語によって統制される以前から表情という付加価値のベクトルの決定は行われているのではないだろうか。先天的な初期値と幼少期に決定される変位の方向と可能性によってその人の付加価値というものは画定されているのではないだろうか。後天的に獲得できる付加価値はせいぜい非物質的な要素だけだろう。そして後天的で言語的な要素は社会から与えられてゆくものであって、先天的な表情の所作などは親から受け継がれるものである。単に親や自分の顔が初期値として良いとか悪いとかではなくて、変形の所作についても親から授けられているはずである。この変形の所作こそが人相を作ってゆくから、単に遺伝による原始段階の初期値以上に、この表情の作り方の伝達は重要なものではないだろうか。

社会の中で大きな集団の中で個人を見るときは、特定の用途がない限りは多数の人間の中から逐一人を顔面で判断することは難しく、書面で表せる経歴や数値化されたポテンシャルなどで人を判断する。一方的で個人同士の関係性が局所的で小規模になるに従って顔面による情報の比重が大きくなってゆく。そして、インターネットの発展に従ってこの“小規模”が物質を越えて拡大しているのが現代ではないだろうか。

大衆に還元される科学技術というものは人間を苦労から解放させるために進化しているという事実を観察すれば、人間は何に対して苦労を感じていて、どのように苦労を減らしたいのかということが映し出されている様子がわかるだろう。物理的に足で山を越え野を越えその先にいる人間に口頭や文章で情報を伝達するということに対して感じていた苦労が輸送機器や電気による通信の技術を発展させた。水は低きに流れるのは鉄則だが、科学技術は水を流したい方向に流路を整備しているようなものだ。科学技術の中の一部分ではあるが、インターネット社会の発展を見れば情報伝達の歴史をリアルタイムで辿ることができる。事実、情報の媒体は文章から写真や動画に移行している。許容されるデータが増えたから視覚的情報の比重が高まったのではなく、視覚的な情報伝達をしたいという欲求が許容できるデータ量の増大をもたらしたはずだ。他ならぬ人間の欲求こそが科学技術の発展の方向性を決定している。そしてこの欲求というのは人が生きていく中での苦労を回避する欲求である。全部私の仮説だけれど、視覚的でプリミティブな情報を得るために科学技術(ここではその一部分の情報伝達に関することだけだが)を発展させていると考えると何だか興味深い。

つまり、科学技術がいくら発展しようとも、リアルな対面は必要なくなったとしても、言語の獲得以前から人間に備わっているプリミティブな機能を駆使した楽な情報伝達手段である視覚による情報伝達からは逃れられないのではないだろうか。むしろ科学技術の発展がますます視覚的情報の優位性を高めているようにも思える。私達はどれだけインターネット内の承認のために整形をしているのだろうか、インターネット内の広告はどれだけ人の美的感覚について口うるさく要求してくるだろうか。

表情の話に戻ると、人は筋肉の動かし方に個人差はあるものの、個人の中では幼少期に獲得された初期段階の学習によってある程度筋肉の動かし方は決定されているのではないか。笑いや悲しみなどのより原始的な発作であれば意図的に筋肉を動かすということは難しく、初期段階での学習によって覚えた筋肉の動きはいつも反射的に同じようなものになる。その都度強度が違うだけである。能面の表情は角度を変えれば怒りにも笑いにも捉えられるというのはよく言われることであるが、笑いというのはサルがやる威嚇の表情の発展型であるから納得がいく。表情というのは個人間では遺伝と親によって受け継がれたところの差はあるが、個人内では初期段階での学習に従って怒りも笑いも筋肉の動かし方には大した違いはなく、ほとんどいつも同じような動かし方で、それほど多様性はなく、せいぜい強度くらいしか操作できていないのではないか。

同じような表情の所作が永久変形である人相へと発展していくから、初期段階の入力がどれだけ重大であるか考えると途方もない。視覚的情報が優位になっている現代に生きるということを考慮するとさらに途方もない。

人が社会の中で承認を求める時、仲間であることを示す時、何よりも重要な情報となるのは表情である。私達が承認される人間、許される人間であるかというのは私達が社会というものを学ぶ以前から表情のポテンシャルによって決定的なのだ。私達はかなりの割合で思考を通さずに人を人相や表情で認識し、コミュニケーションを制限しているし、思考によって印象を変えるのは労力を要する行為だと思う。許されるコミュニケーションをとれる人もいれば一生苦渋を舐めるようにコミュニケーションを取らざるを得ない人もいる。

そんな価値のある表情が自然と出来る人も出来ない人も、今更どうしようもないのだけれど、こんなどうしようもない不都合を真顔で見つめることもまた人間の営為だろうか。