#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

よりニュートラルな唐揚げ

一人称が定まらない問題。

日常会話で一人称がブレまくる。そもそも日本語は一人称が多過ぎる。

例えば西洋的な考え方では人間は神によって作られたものであるから立場によって変化することのない普遍的な一人称が与えられ、八百万の世界観ではそれぞれの神がひしめき合うなかで人称が相対する関係によって変化するから、というのは今思いついたものだけれど、日本語のコミュニケーションでは対話する相手との相対的な立場に依存して一人称があるというのは確かだろう。一人称というのは敬語の問題であったりジェンダーの問題だったりと関連している。私たち日本人は何かと敬語を使おうとするし、それで敬意があろうとなかろうと敬語を使うというのは、とりあえず波風を立てない方法であるとの共通認識があるし、同調圧力でもある。人によっては日常会話のかなりの部分を敬語の構成にあてがっているだろうし、敬語は私達の言語に基づく思考体系と切り離せないものでかつ支配的なものだろう。自分を語るときや相手を意識するときもジェンダーの空間から席を外すことは出来ない。

手元に用意された一人称が増えれば増えるほどその選択には意味を持たせなくてはならないという見えざる圧力のようなものが働くこともある。歩き方を意識して歩き方がぎこちなくなるように一人称を意識して一人称ひいては自分というものについての意識すらぎこちなくなる。

例えば漫画やアニメで用いられる「お嬢様言葉」だとか「博士っぽい喋り方」にも一人称の問題は付帯してくるものである。これらは現実世界では使う人などほとんどいないにも関わらず、漫画やアニメの世界では記号化されて共通認識に刷り込まれてゆく。キャラクターごとに使われる語感や語尾に一人称が修飾していることはよくある。しかし、漫画やアニメのキャラクターが一人称をブレさせることはほとんどない。もしブレが起きるならば読書や視聴者は混乱するだろう。何に混乱するのかといえば、それは単に語感のブレではなく、キャラクターの人格のブレに対してである。漫画やアニメのキャラクターには基本的な像として一貫性が求められているのであって、そこが魅力なのである。しかし、現実世界に居住する私たちはそのような一貫した存在でないことは自明のことといえる。

現実世界でも一人称として「私」、「僕」、「俺」など使いまわしているが、例えば敬語を使う状況で使われる一人称はそれらのうちどういったものが選択されるだろうか。漫画やアニメの影響下にある「俺」、社会人たる「私」…そしてもちろんジェンダーの問題とも不可分である。「ボクっ娘」などという差異化された言葉が示すように明らかである。我々日本人はジェンダーや立ち位置を示さないままに一人称から何かを語りはじめることすらできないのである。

このブログにおいて執拗に「私」を押し通しているが、それは文章だけの身体を伴わない媒体を生かした脱社会的地位の試みであり脱ジェンダーの試みの第一歩でもある。比較的ジェンダー的にニュートラルかつ一貫した用法が良いのではないかという明確な意識の下にこの一人称を使っている。というかそもそも名乗ることすらしていない。名乗ることをしない限り失われない一般性はあると思っている。とにかく「私」以上の詳細は読者に委ねているという設定を想定しているし、何者でもない何かが文章だけで何かになるという意味を体現したいというコンセプトも存在する。この表現方法の限りでは、突然「私」が何者かに取って代わられている可能性も捨てきれないし、突然複数形で「私達」と言い出して人格が分裂したり、誰かが招聘されたと捉えられるような事態になったとしても全て読者に委ねられている方が面白いと思う。人ではない物や実体すらない「私」を自称するシステムが文章を書いているという設定を勝手にしてもらっても良い。そのような余地を残していたい。

SNSのアカウントやアバターが現実世界の身体と離れたとき、一人称による主体の選択は最も簡単な自己の表現方法と言っても良い。一人称に性差があるからこそ身体を離れた表現ができるとも言える。西洋語ではせいぜい他人から「he/she」のような記号を付与されるだけだと考えると、積極的な一人称の駆使は日本語での自己表現の特権とも言えるのかもしれない。ジェンダーだけでもなく、来歴や身体に依存しないインターネットの中だからこそ、方言の使用や特徴的な語尾の使用によるキャラ付けも可能となるでごわす。

一方で、現実世界の私はかなり一人称がブレている。同じ話し相手ですらコロコロと一人称が変化していく。自己表現として多面性を表現したいときもないではないが、それにしても選択肢多さから来るの判断のぎこちなさという側面の方が強いと思う 。一人称が定まらない問題について考えてみよう。

尊敬語や謙譲語となると明確に“自分”や“相手”の立場を上下させるものであるから、一人称や二人称にその都度変化があるのは自明なのだが、問題は丁寧語という殆ど形式だけの波風立てないムーブだ。しかも丁寧語は頻出する。「俺は〜です。」「僕は〜です。」「私は〜です。」…もちろん、書き言葉と話し言葉でも異なるのだが。いずれにしろ「僕」や「俺」や「私」には多かれ少なかれそれぞれの意味が内包されているのであって、それを意識してか意識しないでか使い分けている結果が一人称のブレを引き起こしているのだろう。先程は「私」をニュートラルな表現だと捉えているということを言ったが、これも「私」という言葉の意味に対する勝手なイメージに過ぎない。空気階段のコント『クローゼット』では浮気男が一人称が「俺っち」になるという呪いをかけられるが、“浮気男”と「俺っち」の共通認識と照らし合わせたときのミスマッチが滑稽さを引き出している。

例えばアニメに影響されているとしよう。定型句として浸透しているものだと、「オラ」“孫悟空”だったり「僕」“ドラえもん”だったりする。「オラ」には“孫悟空”のようなキャラクター性が、「僕」には“ドラえもん”のキャラクター性が一人称に対する属性として加えられている。一人称というものが意味と記号の複合たる言語の範疇である以上は、影響元がアニメであれ友達であれ、「僕」を使う人間性や「わい」を使う人間性が念頭に置かれている。その都度相手や自分の人間性を確認し、その関係性の中で一人称を使い分けているということはあると思う。おそらく話しながらでも一人称が変化していくというのは、相手の顔色を伺いながらや関係性を確認しながらでないと話を進められないということの現れである。抑圧的でないように、一定のパーソナルスペースを保ちながら、会話している空間の雰囲気に合致するように、文脈を破壊しないように、一人称からコミュニケーションを構築しているのだ。

しかしこうも言える。僕は一枚岩ではありませんことよ。