#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

念能力

周りの学生が4歳くらい年下だとさすがに、能力的には並の東大生くらいはあるらしい。資料を作ったり会話したりするような誰にでもできるような能力なのだが。

能力なんて思い込みに過ぎないと思う。自分の中の記憶にある都合の良いストーリーに適合するように能力を取捨選択しているに過ぎない。能力があるという方のストーリーにせよ、能力がないという方のストーリーにせよ、自分のある部分を抽象し、その他の部分を捨象する。それは無意識のレベルで顕著なものだろう。

では思い通りのストーリーとは何なのかという話にもなる。これも能力というものに下支えされている。思い込みにより形成された能力がストーリーをより強固なものに補完する。記憶を都合良く取捨選択して作り出すストーリーと能力はお互いを補完し合って混じり合う。「出来る事」と「やりたい事」の混同はよくあることだと思う。

そもそも認識している能力というもの自体かなり怪しいものだ。生きていくだけなら食べてさえいければ良い。原始の時代で必要なのは狩りの能力だっただろう。しかし狩りの能力のような単純そうに見える営みでさえ武器に関する知識や運動能力、防衛に関する策略、獲物に関する知識など多岐に渡るというのは想像に難くない。つまり社会性動物である人間は社会のなかで役割分担をして、自分に“合った”能力を決めれば良い。全てのパラメータを上げる必要性はなく、特定の項目への先鋭化による同種他者との差別化を図ることが生存戦略となる。故に個人が独自にストーリーを組み立てて、そのストーリーの個別性に従って能力を先鋭化するというのは合理性があるように思える。全個体があらゆる能力を満遍なく上げるように進化とすると、それは対外的に種としてかなり脆弱だろう。なぜならそれは全個体が均一化するということで、外敵が容易に攻略できるような単一の回路を形成することになるから。一方で、ストーリーの個別性なるものは社会からの制約を受けている。社会の秩序を破壊するようなものは許容されないし、凡庸すぎたり優柔不断で独自性がなくなるようなものも許容されない。日本は出る杭は打たれるような社会だとはよく言われるが、個性がないならないでも如実に名前や顔などを認知しないと言われることがあるのではないか。ついでに集団の大きさによってそれらのバランスが様々に変化しているように思う。集団が大きくなればなるほど個性は尊重されないし、集団が私的で狭いな空間になればなるほど個性が否応なしに求められる。つまり無意識下で取捨選択され組み立てられるストーリーは社会による制約を受けていると言える。さらにそれは個人が帰依する社会が持つストーリー(神話といっても良いものかもしれない)に沿うように形成されている。能力というものは社会が持つ神話に影響されたバイアスによって認識される。

現代社会では個人は様々なコミュニティに同時並行で所属しながら生活している。現代社会は重層的である。重層的な神話が個人のストーリーに干渉する時、矛盾を引き起こすこともあるだろう。その時にストーリーとして整合性を維持する装置が必要となり、記憶が取捨選択されることになる。自分の記憶が、ある部分では切り取られ、ある部分では拡大される。さらには改変さえも起こりうる。そんな記憶を材料としてストーリーが組み立てられ、そのストーリーに見合う自意識が能力として認識されるに至る。自分が描いてきたストーリーも、自分が培ってきた能力も、案外多くの部分を帰属している集団に規定されているようなものだ。

そして帰属する集団が選択可能であったり一生ついて回るものですあったりすることも考えられる。国籍やジェンダーという集団(集合)であったり、地域やインターネットコミュニティなど、見えるものもあればそうでないものも含めて考えてみる。だからこそ恣意的な選択が出来る集合では自分のストーリーをより強固にすることも可能である。同じコミュニティで何年も過ごしているような人間はストーリーを強固にする一方で多角的な視点を失いがちである。よもやそのストーリーは能力という認識にすり替わりもする。「俺がいなきゃこのコミュニティは駄目になるんだ」なんて言ったりもする。

さらに進んでいくと自分の能力への認識が集団のストーリーへ逆輸入されることもあるだろう。自分の能力的プライドが自分が帰属する集団が持つ能力的プライドに転化される。これは外側から権威主義的視点を与えがちである。「あんなすごい人がいる集団すごいに違いない」という具合である。

「私は一番面白い」というストーリーは、面白さという普遍性のある能力でもあり、一番であるという先鋭化された能力でもあり、社会の中でそれらの普遍と先鋭のバランスをとりながら矛盾のないように記憶を取捨選択され、改竄されて出来上がった自分の能力として認識される。さらにその認識は面白さが絶望的だという神話を持つ集団への帰属を欲望したり、集団ごと能力的な価値を見出したり、同時に一番であることにも予断を許さないような振る舞いも引き起こしたりする。一度ストーリーを認識してしまうと、矛盾は捨象され、無意識下で自分の能力を信奉するしかなくなるのだ。