#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

不謹慎を歩む

観光という日本語は本来その国や地域の光を観るという意味だ。旅行をしてその土地の光を観るというのは誰にとっても心地よいものだ。光の部分であれば何の躊躇もなく積極的に写真に収められるだろう。

しかし、人間の暮らしの中には必ず光もあれば影もある。「田舎の人間は優しい」などというのは一側面から光を当てただけのものに過ぎない。影の部分を含んだ多義的な存在であるが故に人間という存在は魅力的なのだと思う。単純に光の側面としての結果とその因果がストレートに並んでいるわけではなく、あらゆる要素が複雑に絡み合っているからこそ人間の営みは魅力を持つ。影の側面を見ずしてその土地や人々が歩んできた軌跡を辿ることは出来ない。魅力を感じることと言うと消費行動のように思えるかもしれないが、その土地に脚を運ぶというのは耳を傾ける承認の作業であり、その土地の特性あるいは自分の持つ文脈との同一性を感じ、自分とその土地との関係性を築くことである。承認の作業というのは光の側面だけを消費するのではなく、影の側面も含めて声を聞き、そして対話することである。影の側面であるからこそ消費か承認かという問題はデリケートなものとなるが、その境界は相互の対話がなされているかによるものだと思う。

今やあらゆる情報が個人発信できる時代となっては、ジャーナリズムがプロによってのみなされるというものでもなくなった。もう素人とプロの垣根などない。紛争地からのFacebookの更新は現にプロだけでなく市民から日々なされている。発信するにも受信するにも、喜びだけでなく悲しみや苦しみへの意識が個人単位のやりとりでなされるということの方がリアルなのである。この国では紛争地のリアルな惨状はテレビでは放映されることは稀だし、実際にジャーナリストを排斥して国家間のやり取りで得た情報だけを用いて恣意的な切り取り方しかしないような権力層に支配されている。国家のイデオロギーを語る上で、集団から個人に焦点が絞られていくに従って顕在化する多義性は排除の対象となり、特定の一つの型に押し嵌められてゆく。テロや紛争が起こるたびになされる形式だけの「遺憾に思う」発言がどれだけ一方的であることか。煩雑な作業ではあるし全てをすくい取ることはできないにしても、一方的な支配の枠に囚われず、個人として意識を向けることが重要であると思う。そして必ずしも脚を運ばなくてはいけないというわけでもないだろう。

紛争にしろ自然災害にしろ伝染病の蔓延にしろ、犠牲となるのはいつも力を持たない人々からである。そのような非常な事態が起こるたびに社会の構造はより克明に浮かび上がるが、残念ながらそうして真っ先に犠牲になる力を持たない者たちにこそ発信の場は与えられない。死者は時が経つにつれ個は取り払われ、同一の「犠牲者」として扱われてゆく。あるいは国家のイデオロギーに従うなら「英霊」と呼ばれ国家にとって都合の良い文脈に押し嵌められてゆくこともあっただろう。

生きている私達はいつだって私達が光り輝くように生きるのに精一杯で、そのように生きていくのに不必要で厄介な“不謹慎”を敬遠してしまう。

ダークツーリズムの対象は定義として、現代の私達の生活と連続しているものに限定されるらしい。だからあらゆる歴史遺構がその対象という訳ではなく、まだ私達が認識できる近代の範囲に限定される。確かに、強調されるべきは近傍からというのは納得がいく。様々な視点が新鮮であるうちに認識を通して対話し、解釈していくべきだ。現代の事実として、権力による解釈が固まっていないからこそ、個人が理解する意義は十分にある。

東日本大震災後から10年が経過し、私達はどれだけの対話ができたのだろうか。被災者だけがその伝承の役割を担うべきだろうか。史実だけがすべてではないし、しっかりと対話し繋げていくことが出来れば記憶を留めておくこともそれは個人から拡散できるものであり、強固なものにもなる。

直接の当事者ではないにしても、誰しも災害という事実とは何らかの関係性を持っているはずである。そして、どれだけ遠方であったとしても、その関係性を辿っていくことは出来るはずだ。疎外や外部からの文脈の押し付けではなく、物事との関係性から対話を通して意識を辿っていくという選択は、あらゆる選択が個人の志向に依存するようになった現代だからこそ、捨象され続ける訳にはいかないと思う。

声を持たない者にも意識を向けるのに10年という期間はあまりに短い。虚栄に満ちたオリンピックが開催されようとしているが、影の側面がすくわれることなくなされる復興は何を救って何を切り捨てているのだろうか。影の側面を覆い尽くすほどに悲しみは繰り返されやすくなる。

10年の間に切り捨てられた人々や土地は今何を語るだろうか。


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2016年8月にアブハジアという地域を旅行したときの写真である。この時点でアブハジア紛争から約23年が経過している。かつてはそこになかったところに国境線が引かれ、かつての国会議事堂は戦火の元に廃墟となっている。紛争から24年が経過しても街はまだ建設途中だった。言葉があまりわからず、個人的に消費するだけになってしまったというのは非常に後悔の残るところである。

災害と紛争では文脈が異なるのは確かだし、何かを自分の中に写し取るということは何かを切り捨てることでもある。

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失われたものは確かに存在し、ただの歳月や虚栄が回復をもたらすということもない。意図的に遺構を保存しているのだとは思うが、現実に紛争から24年が経過しても影の部分の物語は残っている。

2018年5月、福島県f:id:akiiix:20210312215217j:image


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2020年10月、岩手県

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2021年3月、福島県
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時計の針は止まっているけれど、風化の針は進み続けていると思う。

これでも私は全然対話出来ている気がしない。

本当に何も出来ないけれど、目を背けないで居続けよう。