#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

幸福と承認

これだけ文字を重ねても納得のいく文章を書けたと思うことはほとんどない。見たことも感じたことも考えたことも全て自分の体験として経てきたものなので唯一のものだとは思うし、他の誰にも書けないことでもあると思う。そんな自然のままに思うことを文字として重ねて行くのは出来ても、まともに伝え切るということはどれだけできているのだろうか。かなり思い当たる節があるのは文章としての構成を全く意識していないという点だ。やや自覚的に癖のある語句の使用よりも深刻な問題だ。ほとんどの場合で導入部を飛ばしているところ。内容そのものが伝わらないくらいに突飛であるということはほとんどなく、単に伝わりづらい構成をしているのだと思う。表面なくどろどろと液状化した内容物を垂れ流している。そう、まさに今。導入部をしっかりと構成する努力をこんな仄暗い場所でしてられるかというと、今後もやらない時のほうが圧倒的に多いだろうが、その事実については内省的でいようと思う。逆に言えば、自分なりにではあるが内容については満足出来ていることがあったりもする。満足のいく承認を得られないことに、今まで自分のことについては内容面で自分のことを卑下し、理由を求めてきた節があるけれども、かなりの部分それは伝達能力それも構成力の問題であったと感じてきた。

それはさておき、内容面での充実は承認されることに繋がるのであろうか。私達も、軽薄な内容をその軽薄さ故に容易に伝達可能なものとし、ただ単純なそれだけの伝達で承認を得るというそのものの軽薄さ込みの二重の軽薄さに辟易しているのではないか。いよいよそれだけの単純化された承認の構造が胡散臭く思えてくる。真に尊いのは承認されないという事実がまさに内容そのものになった時である。承認を得たという事実はいくら情緒的に飾り立てたとしても承認を得たという事実が内容を陳腐なものにしてしまう。ほとんど苦しみしか感じられない地獄のような毎日こそ個別の生の体験であり価値のある内容物である。多様で個別の生さえあれば十分である。いま承認に希求してしまう慾望を捨てよう。

私達の多くは誰かに取り沙汰されるような特別な不幸を持っているわけではない。それでもどこかしら疾患を抱えていたり不和を感じたりする。私は誰かに何かを与えられているだろうかと不安にかられる。なんとなく不幸であり、その生の実存や相対的な安定を他者と比較しながらなんとなく幸福であるとも言い聞かせている。現代のSNSというセーフティネットは不幸を十分に貯蔵しているし、直ちに言葉を与えてくれる場合もある。救いを求めたり、救いを求めずともいたずらに吐露する機会は従来のオフラインのコミュニティよりも格段にその可能性が広がっている。幸福なことに、あるいは不幸なことに、不幸を内面に抱え続ける必要がなくなりつつある。だからありのままのものを表出させる形で不幸と向き合うことになる。しかしそんな私達にとって本当に向き合うべきは幸福の方である。幸福に向き合う方が遥かに困難なことではないかと思う。不幸は多様に存在することが許されても、幸福は例えば商業主義や功利主義に絡め取られて一元化されていて実在を探り当てるのが困難である。嫉妬の対象になることから逃避しなければいけなかったり、幸福の中にある不幸の主張が他者から遮断されてしまうことに対してケアしなければいけなかったりもする。幸福に向き合うこと、自己に幸福を内面化することは困難であるが、困難であるからこそ自己を生きる本質なのではないかと思う。他者からの承認は期待するまでのことではないが、自己による自己の承認、それも幸福を内面化した自己に対する承認は価値のあるものではないだろうか。不幸一義では価値のある内容は完成していない。そしてもっとその先、自らの手で自己を救済し、全てを許したその先に、本当に大切な人がいるのだと思う。

一瞬でも些細でもいいことがあって、大切な友達もいるし、身近に尊敬できる人もいる。本当にこの一瞬で十分だと、そんなことを思って明日死ぬかもしれない命を借りながらふと考えてみた。