#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

君可愛い彼女持ってるね僕の彼女と交換しようそんな可愛いはいらないわ

この夏を越えさえすれば、君は私を私は君を許すことでしょう。

そんな情緒は必要ない。辛いことを経験したら強くなれるとか優しくなれるとかいうのは幻想に過ぎない。何らかのバイアスが働いてそう願って、何とか整合性を取ろうとして、深層心理で解釈含みの現実を恣意的に選択しているだけだ。そう言い聞かせて強くとかなろうとしてるのも見え透いている。

ただ観測した現実が無残に横たわるのみで、私達はただただそのことについて直視し思考するしかないのである。私達ははじめから代替可能な存在であるという現実のことである。儚くも脆弱な私達の存在そのものについて傷つけ傷つけられながらその認識を醸成してゆく他ないのである。生きるということは、もっとも他者とともに生きるということは、今ここで歩みを止められるようなものではない。

私達が代替可能な存在であるという認めがたくも遊離しえない現実から唯一解脱の手を差し伸べてくれる存在もまた代替可能なのである。私達を相互に代替不可能な存在へと昇華させるものこそが関係性である。何故なのか。私達個人はそれぞれ所詮物理量でしかない。正確に表現すると、せいぜい物理的に観測可能な物理量としてしか他者から観測されない。示量性の存在であることしか可能ではない。あらゆる質的であるかのように表現される全ては言語によってデジタルに切り取られ、馴染みの言葉に格納され、レッテルを貼られる。時には比例式に代入される。さらには生物としての本質に切り取られ、言葉によって切り取られてゆく。その度に傷つけられながら。そして誰かを傷つけながら。個々の差異を表現しようとするにつけてもその量的差分でしか表現されず、益々代替可能性が版画のように浮き上がってくるではないか。観測される者の悲運。反対に、個人間の関係性は示強性の物理量である。温度が変わり、圧力が変わり、濃度が変わる。これらは他者へ伝達されるのだ。これこそ代替不可能な存在へと昇華される兆しである。量は変わらず、質が変化していくのだ。非平衡が作用する伝達によって。非平衡であるという条件こそが関係性の質的変化をもたらし、そして個人は他者からの観測上における代替不可能性が獲得される。他者に対する新鮮さや衝動は非平衡への敏感な察知であろう。他者との関係性そのものを保持しつつさらに非平衡を維持している限りにおいてのみ代替不可能性のトランス状態に浸ることができる。ならばどのようにして非平衡を維持できるのだろうか。一つは観測される者の悲運、個人の物理量を変化させることである。代替可能であるが故に、無情にも過去の自己と未来の自己を代替できるだろう。代替可能性を強固にして代替不可能性に奉祀する。皮肉だけれど。もう一つは他者に相対する質のオーダーを極限化することである。関係性における代表的な質として感情というものがあるならば極限まで膨張させることだ。あるいは、他者を物質化することだ。よもやその営為こそ暴力かもしれない。例えばセックスも一つの暴力行為だ。暴力が言葉では、量的事象では埋まらない隙間を埋めてしまう。だから心中するしかなかったりする。必ずしも暴力的な補間にセックスを用いる必要もないのだが、手っ取り早いコミュニケーションツールであることもあるだろう。こうして関係性を強固にする営みは生を死へと加速させていくのである。何よりも死は代替不可能なのだから。そして死はおそらく生者には理解できないほど他者との関係性を強くするのである。代替可能な些末な存在群から偶然にしろ性癖の導きにしろ選び取られ、代替不可能な存在へと昇華され、代替可能性を強化するその行為が何よりも尊いものなのだと思う。この尊い関係性は高々言葉や生物的制約に切り取られるものではないし私達の強さによって維持されるものである。