#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

オトモダチトクテン

かなり頑張って話しかけてみたけどそれ以降は音信不通です。ありがとうございました。背景ポイントだけが貯まっていきます。要るか要らないかで言えば要らないと思います。そんなもんです。何が面白いか説明できません。ズレてるんです。「よさ」を先回りして知ってるけれど先回りしてることも知ってるからそれが「よさ」なのかはわかりません。あるがままを受けいれることに熱中しすぎて感情はありません。お友達特典、そんなのありません。私の中の仮想現実において他人は構築されているだけなのでもはや現実の他人が本当はどう思っているかなんて関係ありません。私にとっての他人から見た私の像が認識不能というだけなのです。

 

ディズニーランドはメディアだって言ってた。その場所にいる共通の認識を得るための媒体だって。誰もディズニーランド自体に本質を見てはいないんだって。メタな認識上の空間だけが本当に共有可能な部分なんだって。こんなことを考えて没入できないような人間である時点で既に何か失っているとは思うけれど。思えば誰からも必要とされた試しがない。肉体ではなく精神において。特別に特定の場面なんかで必要とされる人格ではなかった。それをあこがれと共感なんて言葉にしてくれた。共感が足りないんだろ。知ってる。知ってるだけ。あこがれについては免罪符としてこの言葉を用いたのか本当にそうなのかは知らないけれど、本当にそうだとしてもやってきたことが無駄だったと自白させられてるようなもんだろう。つまりあこがれを抱かせる人間と共感できる人間という区分。相反するものとしてこのニ者を扱うから共感はあこがれを減退させるし、あこがれは共感を減退させる。いずれにしろ共感成分が足りていない。あこがれを抱かせる方だというならむしろ共感に対する期待を押し込めているということになる。共感。どうやって話せばいい?どうやって振る舞えばいい?バックグラウンドは違うのに。

私達は全員宇宙人だということを教えてくれた。誰も誰のこともわからない。理解出来ない者同士でもそんなこと構わずに過ごしているんだと 。だから全員服を着ている。裸で人に接していない。裸で接していると思ってた?人前ではちゃんと共通認識という服を着ている。大体ずっと着用しているもんだろう。窮屈に感じる人もいればそうでない人もいる。それでも誰でも“ファッション”を取り入れて人と接している。割り切れないなら人と接する権利を放棄しているとみなされて然るべきだ。自分自身が客体とみなされる想定ができていなさすぎると思って意識的に客体化してみたけど需要がなかったらしい。誰にとっての需要なのかは知らない。

共通認識が狭くなる機構がある。自分にとって馴染めるものができてしまい傾倒を深めてしまうとそれに従った文脈でしか会話や振る舞いが出来なくなる。傍から見れば既知の認識の範囲内であれば理解出来ても、知らない文脈で語られるものを相手側がすぐに理解できるとは限らない。馴染みが深く常にそのものと接していると全ての外界が支配されてゆくからその他の文脈では何も言うことが出来なくなってしまう。オリジナリティと呼んでいたものがせいぜい有限の範囲に押し込められてしまう。しかしこれは仕方がない。ファッションを一度放棄してしまえば、あるいは情報源を一度遮断してしまえば極力狭い範囲にしかない自己都合による文脈の構築をせざるを得なくなる。だからこのループに陥りやすくなる。

何も全てが異性愛中心二元論で語られる必要はない。もっと広い範囲、異性愛中心的な“ややこしい”範囲の外側ですら微塵も手応えがない。自分の足で立っている感覚がない。自分の「よさ」を自分自身で評価しきれない。でももっと最悪なのは一定以上自分の「よさ」を評価しているところにある。「よい」からこそ承認され可視化されていない自己が鮮明に浮かび上がる。「よい」ものは売れるという誤謬。私が私であって「よい」と思っているだけであなたを「よい」と思うことでもあるのに。だから何もわかってないセカイは最悪。