#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

ドライジーネ

自転車を生活の中心に据えなくなってからというもの、思考の中心も内部メモリーから外部メモリーへと移行した。何時間にも渡って思考のみを行う崇高な時間が限りなく減少し、代わりに自己の有限性を克服せんとする意思をもってして思考を読解という方法へと変化させたパラダイムシフトが確かにあった。一方で希少価値が見出されるまでに至ったサドル上の思考体系はこれまでとの連続性において曖昧なものとなり崩壊の危機にあるだろう。

しばしば自転車は背景の内に存在する自己の代替として、あるいは拡張された肉体として表象されてきたが、こうした生身の身体と機械的な装身具との関係性にも変化が起きた。思考中の生身の肉体と精神が装身具によって拡張されていたのだが、今や思考体系が自己の外部に存在する思考体系の索引となった。すると肉体と精神は分離し、肉体のみが特権的に装身具の所有者となり、生身の肉体と装身具の接合に対して思考を重ねてきた精神が排外されることとなった。しかしここで思考体系が完全に締め出されたわけではなかった。オルタナティブな思考経路が出現したのである。あくまでも機械的な外部としての装身具由来の特有の思考経路である。自転車に乗っていない平常時に思考停止した時に思考の再起動を行う装置として有用である。自転車はもはや肉体の拡張ではなく、外在化した思考経路のバックアップとなったのである。寄生者と宿主の関係の逆転。