#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

どちら様?

大阪市新今宮駅周辺の再開発に関連した街のPR記事がnoteで炎上した件について、考えるところがあるので言語化してみる。当該記事はライターがホームレスの日雇い労働者と交流するといった内容のエッセイなのだが、炎上の理由には、開発を進める「こちら側」から見世物的に人間を搾取する構造への無自覚さや傲慢さ、このライター本人とホームレスの関係性が政治性やそれに基づくいびつな社会構造を基礎として成立しているという視点の欠如などがあると思う。こう端的に表現すること自体もちょっと違う気もするのだが、とりあえずはこのニ点について思うところを整理していきたい。

まず当該地域の地理的関係が示すものを整理しておく。私にとってこの地域は地元というか、高校からもかなり近い場所にあり、授業中に通天閣を眺めていたような思い出もあるくらいの、かなり馴染みのあるところで感覚的に捉えられるくらいの場所である。私が通っていた高校は上町台地という高台の上にあり、その高さのまま南へ行くと、ここ10年くらいで再開発が一段落した阿倍野というエリアがある。阿倍野から西に下っていくと新今宮を通って西成区となる。阿倍野側からは坂を下る方面には大型ショッピングモールがあり、ちょうど崖下を沿うように高速道路があり、それらがブラインドの効果を発揮して西成区側は高台からはあまり見えないようになっている。一方で西成区側からは目近に大きな建物は少なく、すぐそこの高台を見上げると、資本主義社会が行き着いた図式そのままに労働者と資本家の対比を煽り立てるかのようにはっきりとした高低差を保ちながら、巨大資本によって開発されたシンボルとしてのあべのハルカスが聳え立つという構図を鮮明にする。そしてまさに今開発が進んでおり、当のライターが拠点としていた新今宮という場所はそれらの境界に位置しながらもギリギリ「こちら側」(新今宮駅西成区ではなく道路を挟んでギリギリ浪速区)であるという点も留意されなければならない。私の感覚としては大阪屈指のお坊ちゃま高校の窓から見えるのは通天閣くらいで、実際にはその下町の風景は視覚的に認知はしていたが特段興味を引かれないような意識外の存在であったのか、あるいは恣意的に大人から大阪の栄華の象徴である通天閣以外のものについては意識を逸らされていたとも考えられる。観光地として古くから馴染みのある通天閣周辺はまだしも、あいりん地区や飛田新地などはタブーといった雰囲気があることは高校生の私でも確実に読み取っていた。冬を乗り越えられずに餓死するホームレスが後をたたない地域だということで毛布の寄付などは各家庭から学校を通して行われてはいたものの、その構造や地域の歴史については何だか煙に巻かれたような印象だった。事実として当時高校生の私は調べようとも思っていなかった。私が通っていたのは経済的にも社会的にも高い階層の家庭出身の人間が集まるような高校であり、そういった階層の人間が自らの地位を揺るがす可能性を孕むという潜在意識から社会構造自体に意識を向けられないという問題は、意識を向けるか向けないかの自由な選択を個人が判断できるという幻想込みの自由主義に基づく資本主義社会が、再分配という観点での行き詰まりに直面しているという問題の根本に存在していると思うとなんとももどかしい。このように阿倍野天王寺西成区の分断は崖という地理的な高低差と相似形の経済的高低差を含み、視覚を通して得られる意識的な非対称性をも浮き彫りにする。

長くなってしまったが、当の記事が炎上した背景を考えてみたいと思う。まず、この記事が炎上するに至るには当然ある程度の閲覧があったことが前提となる。つまり一定の評価はされていると見てよい。実際は私自身はそこまで真面目に文章を読んではいなくて、流し読みで問題点を抽出したくらいなのだが、この文章を読んだ時にかなり複雑な気持ちになった。正しく告白すべきなのだが、批判されている問題点は理解できるものの自分の旅のスタイルと重なる部分が多く、自分からは一方的に批判できるものでもないなと率直に感じた。Twitterではかなり一方的な集中砲火がなされていたので、その批判はもちろん的を射ているとも思うし妥当なだけの批判の勢力だとも思うが、その全員が自省的な観点を持たずにそれこそ「こちら側」から一方的に批判しているのではないのかという疑念も抱いていた。しかし記事のライターや私のようにダークツーリズムをやろうとしている人はおそらく少数であるし、そこまで批判の観点も一様なものでもないのでまずは私自身の個人的な問題として再構築しても良いだろう。

旅という行為について自分の中の定義を整理しておく。これは私の価値観に基づくのだが、旅と観光を分離して考えてみる。観光というのはその場所の光の部分を見るという行為が定形のパッケージとして販売され、消費されるというものであると思う。旅というのは見るという行為に加えて体験するということが重要な要素として組み込まれているように思う。誰かから提供されるわけでもなく、定形があるわけでもないところから自らの主体性に基づいて計画され実行されるものである。観光が定形のパッケージに組み込めないものは不確定要素である現地の人である。不確定な現地の人を排除したとしても観光は成立する。一方で旅に重要な要素となるのは現地の人であり、人が自らの主体性に介入してくることで発生する不確定要素こそが旅を旅たらしめる体験という要素ではないだろうか。最も、その不確定要素が現地の人ではなくその場所の自然である場合もあるとは思うのだが、自然だけに向き合うというのはむしろ偏りが強く、旅というものの核心部には位置していないだろう。こう旅というものを定義したところから派生してダークツーリズムについて考えてみよう。

観光というものはどこか表面的で、その光に照らされていない影の部分があるはずで、そこに焦点をあてようとする精神からダークツーリズムという発想が生まれている。見たくないものに蓋をして表面だけを見せるようなパッケージングに対するカウンターとして存在するダークツーリズム。そういった意味で観光へのカウンターではあるが、反パッケージングという点では上で定義した旅の一形態だとも言える。従って当該記事はまさしく不確定要素を面白さに見据えた旅スタイルのダークツーリズムの実践エッセイだと分類できる。PR記事として書かれていたということもあり、日雇い労働者を差別するなどの明らかに露悪的なものでももちろんなく、体験として現地の人と触れ合うという旅情を映し出すエッセイとして一定の評価はなされているというのは理解できる(一定数のいいねがあった)。問題はこういった人に介入するスタイルであるからこそ丁寧になされるべき配慮の欠落である。ではどういった配慮かというところを自分自身への課題としても真面目に考えなくてはならない。

一つにはコンテンツとして想定しているのが生身の人であるということ。PR記事として出されたことが余計に醜悪さを際立たせているが(さらに記事の公開当初はPR記事であるとも明記されていなかったことも相俟って)、生身の人間をコンテンツとして消費しているという点はパッケージとして販売される形の観光が主にモノへの消費を通してコンテンツを成り立たせているのとは訳が違う。その生身の人間の置かれた立場や背景を無視してはいけない。なぜ相対している人のバックグラウンドを無視することが起きるのかというと、旅をしている自分の文脈にしか意識が向いていないからだと思う。自分の文脈を一方的に相手に押し付ける相互性の欠如がまさしく消費といえるものである。外部への発信を目的とする取材にしても、一過性で自分の中にしまい込めてしまう旅にしても、現地の人をコンテンツにするという側面は少なからずあるはずで、ではそれをなくせばよいかというと、そうすると取材や旅の意味を削ぎ取ってしまうだろう。例えば悲しみに寄り添おうとして恣意的にそういった側面だけ切り取るというのも、逆にそうではない部分だけを恣意的に切り取るというのもどこか焦点がずれているような気がする。かといって主体性を取り払った上で人に接するということも、それはそれで現地に行ったり直接対話するという事柄そのものを否定することに繋がるだろう。行為者の主体性と現地の人間の主体性のバランスを取るというのはそう容易ではない。容易ではないのだが、暴力性を孕んでいるということは知っている必要がある。さらにあの記事の無理があるところはPRとしての側面で、それは消費を促す商業戦略に現地の人間を巻き込む形でパッケージングしたという一方通行の暴力性を帯びているところである。いやしかし、あの記事が一定の評価をされ、同時に炎上したということを私は真摯に受け止めなければならないと思う。私は主体性を持って誰かと接するときにはいつでも誰かを搾取する危険性と向き合っていなければならない。

そしてもう一つ当該記事が与えた違和感というのは、PR記事という戦略がまさに政治的と言えるのだが、政治性を覆い隠しているところである。日雇い労働者やホームレス、やむ終えない事情で従事しているセックスワーカーなど、彼ら彼女らの背景にある社会構造に目を向けずに外側からそのままの姿を映し出すだけということはかなり邪悪なことなのではないかと思う。その状況は彼ら彼女らが主体的に選択した結果だろうか。その状況が仮に選択の結果であるかのように見えてしまうならば選択する権利がある側の理論の押し付けでしかない。資本主義を基盤とした社会構造は結果として経済格差をもたらすだけでなく、そこからさらに選択権の格差をも生み出している。「こちら側」から新今宮という境界線上を起点として「あちら側」に往来できるのはそういう選択の権利を持っているからであって、「あちら側」の人間が自由に「こちら側」に往来できるとは限らない。そのような政治性をなかったことにして此岸から一方的に彼岸を見下ろす他者視点がこの記事の醜悪さを物語っている。

さらに言うと当該地域の人間をコンテンツ化するということはそこの人たちをある意味では持ち上げ、現段階で開発の俎上にある経済体系に組み込むということになるだろう。これが非常に深刻な問題であると思う。そこにいる人間を経済的に組み込むということは、開発する側の資本がそこにいる人間の生活を握るということである。それはそこにいる人間の生活を人質に取りながらコンテンツとして人間性を搾取し続けるという構造に収斂していくのではないだろうか。経済的にも社会的にも搾取する側と搾取される側の構図をそのまま相似形に膨張させるのみであり、その対比関係をより強く固着させる可能性も大いに考えられる。開発を進める側が用いる“多様性”という言葉も現状の社会構造を封じ込めて見えなくする道具でしかない。視覚には入るけれど内在する政治性にも、そこにいるそれぞれの人間が持つ背景にも目を配ることは決してせず、あくまで「あちら側」という意味での“多様性”という言葉の暴力性には注視しなければならない。当然自分自身もこの記事の炎上を「あちら側」の問題だと言い切ることもできないのだけれど。