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日常系ゆるふわ思い付きブログ

勝手にゴールデンカムイ

北方民族は言語や宗教で分類された少数民族として見るよりも、私達のような農耕民族と分離した狩猟民族(一定割合で農耕を生業とする中間的なグループも存在するが)という文化圏として見る方が面白いと思う。北方進出の技術的叡智の結晶としても興味深いところではあるが、信仰体系に農耕民族のそれとは対置した含意が見いだせる。

日本における高位の神がアマテラスであるように農耕民族に典型的な信仰対象というのは太陽である。農業を中心に発展した四大文明などにおいても同様である。一神教の世界にしろ多神教の世界にしろ太陽というものの地位は別格であることが重要である。典型的な定住農業は蓄積を可能とする。土地の善し悪しや技術の差異により蓄積による差、貧富の差が生じる。すると権力は偏りが生じてやがて中央集権化され、統治のシステムが築かれることになる。太陽という代替のない“神”というのはこの集中した権威と結びつきやすい。農耕民族の信仰というのは、一神教にしろ多神教にしろ権威的な秩序をもっている。そしてこの信仰の秩序と土地の配分などに代表される統治による生活上の秩序が絡みついている。

一方で狩猟民族の信仰には太陽が別格の扱いを受けていなかったりする。とりわけ狩猟民族の中でも小規模な農業をしているグループは太陽をまともに信仰していたりするという事実が逆説的にこのことを浮き彫りにしているのだが。つまり太陽を頂点とするヒエラルキーとは構造を異にする、対等な関係性の中にある多神教である。そして狩りという生業は「殺るか殺られるか」という自然と対等な世界観を涵養するものであり、自然を開発するというある種上からのマウントは存在しない。自然に対する見方として、序列や権威を設定していない。いずれにしろ序列が設定された構造というのは交換可能である。人間の生活と自然の領域が分断された価値観にいると、自然は畏怖すべきものであるという筋書きは反対に人間こそが畏怖すべきものであるという筋書きへ反転することが可能である。あるいは神(諸々の形而上の概念)の中の序列を人口の中の序列に重ね合わせて統治機構に組み込むことも可能である。しかし、狩猟民族の見る「殺るか殺られるか」あるいは「互恵関係」という等価性はそういったものの外側にある。権威主義的で中央集権的な社会とは全く別のあり方を示しているのではないだろうか。実際、近代国家に包摂される以前は多くの狩猟民族の中央集権化された中央政府を持たなかったという事実とこのような価値体系はパラレルなのではないかと思う。資本主義の敵対的性格としてよく言われる蓄積というハビトゥスは、定住し土地を開発するという行為が身体化された農耕民族の性格なのだろう。定住する限りは蓄積は単調に可能であるから。他方、狩猟民族は蓄積をあまり好まない。定住よりも移動を考慮に入れた方が狩りには有利であるし、一般に肉類は保存に不向きである。蓄積を好まないことが中央集権化を回避している所以の一部でもあるのだろう。自らを自然の中の循環のサイクルに組み込むことで可能となる巡りの良い生活こそが蓄積ではない豊かさである。

大学の授業である宗教学では「結社を作り、教義に基づいて布教する」というのが宗教の構成要素としてあるという説明がなされているらしい。これはかなり西洋的だと思った。キリスト教だと戦争していた歴史が(現代でも)あったため、集団化し、さらに信徒を増やすことを一つの目的としたのであろう。現代においても宗教というものが戦争の口実として機能しているかのように見えるのだが、実際には逆で、元々対立したグループがそれぞれ宗教の名のもとに集団を増強しているにすぎない。それも全ての例は対等ではないのだけれど。話を戻すと、生産を増やし蓄積するという農耕民族的なロジックの中に存在しているように思える。集団化し、生産を増やすというのは暴力的な「国家」を誕生させる手段でもある。そういった集団化や権威化とは目的を異にするものを宗教学のいう「宗教」から除外するのなら、それはもはや「信仰がある」くらいの表現になるのだろうか。この「信仰がある」くらいのある種の緩くて個人的な領域に納まる程度の宗教観の方が真正の虚構世界の築き方なのではないか。

一方で狩猟民族と農耕民族の共通項に着目しても面白い。それが文化の差を越えた普遍性のあるものだと認識されるということがある。人間の作り出す虚構世界というのは何かを仮定すること、仮想することから構築される。あらゆる認識の中でも人間の思考の及ぶ範囲は限定的なもので、認識はされるが未知数なものや未確定なものに溢れている。その中でどうにかして解決しなければならない。その中で何らかの理由付けや求解をしなければならない欲求が虚構世界を作り出す。太陽(あるいは科学であっても良いのだが)を信仰するというのは豊かさ(食糧)への永続的な不安を打ち消す欲求から来るもので、不安を解消する理由付けとして機能する。直接的な効果は想定しないにしても五穀豊穣の祭が行われる。狩猟民族にとっての五穀豊穣の祭も普遍的に存在する。一つは熊送りという儀式である。熊(神様)をもてなしてあの世に送り返す。するとやがて食糧(狩りの獲物)を携えて森に戻ってくるという。狩りによる獲物の単純減少という不安からの反動としてこのような神話を生み出したのであろう。不安を解消するために虚構のロジックを生み出して心の安寧を図るということが文化的に共通するというのは興味深い。