#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

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コミュ力”として多くのものを十把一絡げにしてしまうのも問題だけれど、コミュニケーション能力を定量的な能力として評価しようとするから一つのものに収束していくのだと思う。企業は表向き多様性や持続可能性を謳ってはいるけるどほとんど虚像を覆い隠すマスキングにしかなっていない。コミュニケーション能力というマジョリティの自己正当化のバイアスのかかった思い込みが多様性を壊している。女性の雇用や障害者雇用などのガイドラインに従ってマジョリティの集合の周縁に取り付けたようなものは多様性とは言わない。それぞれが分節化された単なる多元主義にすぎない。結局のところ権力は多様化にその席を譲るどころか周縁化された集合をコントロールすることに執着する。権力が恣意性をもって表向き再分配を装って実のところは自由にコントロールしているにすぎない。コミュニケーション能力を軸に雇用を判断するというならコミュニケーションの基盤となる双方の共通認識に従って同質性のある者が有利となるバイアスがかかっているはずだ。

本来コミュニケーション能力とは意思疎通の能力であったはずだが、マナーやスキルと結び付いて良し悪しを判別されるようになっている。日本特有の敬語を使えるかどうかが意思疎通の能力として見られたり、話し方や滑舌の鍛錬を積んでそれがあたかも意思疎通の上手さであるかのように錯覚する。本来、人間が発達させてきたコミュニケーション能力というのは狩猟や集落での共同生活において必要に応じて身につくものであるはずである。現代の都市生活において考えてみればオフラインのコミュニケーションもあればオフラインのコミュニケーションも存在する。意思疎通の範囲を即時的な会話やジェスチャー以外にも読み書きも含めるとするば現代の都市生活は狩猟や農耕を営んでいた時代よりも遥かに読み書きの比重は高まっている。つまり時間も空間もズレているコミュニケーションというものがかなりの部分で存在する。現代人の適応として即時的なスキルを求めなくても十分たりうるのではないだろうか。あるいは能力評価に向けて話のテクニックを煮詰めすぎた結果、聞く、読む、書くということが蔑ろにされすぎてはいないだろうか。敬語のマナーやテクニックより優先すべきは評価なんてされない領域のコミュニケーションだと思う。耳を傾けるということや読むということ、それが現代の多様性に対する向き合い方でもある。

どれだけ多様性を謳っても就活生の容姿は統一的だし、企業の求める人物像とやらも時代に即応する消費者本位の社会においては時代性の写しに過ぎずどれも同じようなものだ。企業と就活生を繋ぐプラットフォームは相変わらず寡占事業であるし、それからはみ出すものは可視化されないように上手く出来ていると思う。一定の共通認識を基盤に構成されたスキル化されたコミュニケーション能力を軸にする以上、権力構造においても同質性が再生産されるだけだ。多様性という言説がいかに欺瞞的で多くのものを覆い隠しているのだろうか。