#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

選択的問題

人々が語るストーリーの主語は「私たち」から「私自身」になった。時代を生きるのは他ならぬ個人だし、他人であっても必死に個人を生きる姿があれば人々の共感を呼んだりする。今や集団のための自己犠牲よりも個人の生き様こそが美徳になっている。

それは自分と他人の境界線を認識して、カテゴリーごとに論じるということの偏狭さや傲慢さに気付いてきている時代ということだと思う。個人主義といえる時代にはなっているし、今後もさらに生活のあり方が見直されてくるとますますこの傾向は加速するだろう。今はまだ過渡期なんだと思う。

そんな中でも、個人の生活や考え方が集団よりも個人を尊重するものに見直されたからといって、何かが多様化したというわけではない。集団内で隠蔽されていたものが個人単位になり、その分発信も容易になり、可視化されただけなんだろう。一方で同質性や連続性への眼差しというものは見逃されてきている。同質性を認識せずに差異を語ることは不可能であるから、これを無視して漠然と当事者意識もないままに時流の雰囲気に騙されて多様性が生まれてきたなどと主張することは前時代の偏狭さと傲慢さをそのまま個人主義に再移植しているにすぎない。安全圏内でマジョリティの同質性を無自覚に享受している人間が個人主義に基づいて自由な選択をしていると思い込んでいるだけではないだろうか。

人は日々思考や実力などいろんなパラメータを上げたり下げたり増やしたり減らしたりしている。それらの選択は個人として、恣意的になされる。個人主義の名目を掲げて自由に取捨選択する時代だ。もはやみんなで生きようとする時代ではなく、個人の能力をもってして生存戦略を導き出さなければいけない時代だから、個人が選択をしなければならないのは当然であろう。だが、システムが選択的になるというのは離散化されるということだ。無自覚に享受できるような、自動的に提示されるだけの選択で生存できる人が全てではないのだ。人の向く意識が選択的になればなるほど、ただ提示される選択肢だけで満たされる人は、離散的な選択肢からあぶれる人の事に気付かないという構図になってゆく。こうして選択に渋々妥協させられたマイノリティーが再度不可視化されてゆく。多様性を尊重するという建前の元で、選択的問題に矮小化させるのはその解決手段として妥当だろうか。自由主義を標榜したいがために、選択肢を作るというあべこべな事態になっていないだろうか。わざわざカテゴリーを作って離散化する必要性がどこにあろうか。自由のためというならば、それぞれ個人が自分らしく公平に生きることを求めるべきなのに、言葉で区切られた選択肢に妥協している場合ではない。自由が選択的であることがすでに危ういのだ。選択肢を無自覚に取捨選択するだけの人間には中々気づかれない構図なのではないかと思う。

とはいえ選択に対して慎重になるべきだという話は分野によっては遠い未来のことかもしれない。なぜなら日本にはまだまだ選択肢すら提示されないような理不尽な禁忌がたくさんあるから。