#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

陰影

シベリアという言葉から何を連想するだろうか。検索の候補には抑留、鉄道、お菓子などが並んでくるらしい。どういった言葉が連想されるのか自体はさしてどうだってよかったりするのだが、多くの人はあまりはっきりとしたイメージは持ってないのではないだろうか。ではシリアのラッカではどうだろうか。例えば一番大きいのは紛争のイメージだろうか。

しかし漠然としたイメージは各々持っていたとしても実体のそれは多元的である。いくら極低温の土地でも人が居住していたりするし真夏には30℃を越えることなんかは大雑把な説明をする上では省かれがちである。紛争地であっても私達の生活と同じように働き家族とジョークを言って時間を過ごす人がいる。これくらいは少しの情報と少しの想像力さえあれば補えるようなものだろう。語り尽くせないほどにもっと多様な側面も持つはずだ。

それでもシベリアやラッカのような所は私達日本人の多くにとって興味の対象から除外されてきたように思う。その結果よくわからないものカテゴリーに押し込められていっているだろう。無論、世の中は私やあなたが知らないだけでそんなもので溢れかえっている。カルチャーの世界ではサブカルやアングラとして一部の人間からは熱狂的に支持され、あるいは一部の人間からは冷たい視線に曝されるようなものもある(〇〇文化のような言葉によってそういう印象操作自体もある)。各々自分の好きなものや思うことに対して聖域を作るのは自由気ままにやっているが、外野に聖域を侵されることには看過できないものであろう。

そして、マジョリティの共通認識としてよくわからないものカテゴリーに押し込められた概念たちは無自覚にその聖域を踏みにじられがちである。一方で、一元的イメージしか持たれずに虐げられてきた概念たちが市民権を得ていくようなストーリーは痛快であったりもする。現実には多大な労力や運が必要だったりするのだけれど。

私の場合、こういった興味の対象から除外されてきたようなものに市民権を持たせたいと思うタチなので、できるだけそこに労力を割いているつもりでいる。聖域を侵されるのはムカつくから、マジョリティによる冷たい視線や嘲笑にはっきりとNOを示したい。ファッションであまのじゃくやってるわけじゃない。

市民権を得るための方法論としては開示していくというのは一つ有効だと思う。妙なプライドのせいか、自己完結できる趣味や思想に留めておくのはあまり出来ない性格らしい。

誰にも見つからないようにグレーな領域に踏み込んでその新規性や達成感に自己満足するのは出来るだろう。でもそうじゃない。グレーな領域をホワイトな領域にすることに価値がある。開示していかないことにはいつまで経ってもグレーなままである。いつまでも自分の聖域が不可解な何かであると認定され続けることの悔しさに耐えられなくなってくる。

 

シベリアで現地の人たちや日本にいる人に諭される安全規範と折衝するのはコミュニケーションとして楽しい反面煩わしさもあった。こんなものはすっ飛ばして自由という通行証を掲げて強行突破することも可能ではあった。その方が目的の場所に行くだけならスムーズで合理的に思えるかもしれない。しかしそんなやり過ごし方をいつまでもしているから今だにこんな説得が必要なんじゃないか。自分たちが変人でも自殺志願者でもなく確固たる意思でやりたいことをやる。それだけのことなのにあらゆる説明と説得が必要なのだ。そして肝心なのはどうも単にやっている人が少ないだとか危険だとかいう問題だけではないように思えるということ。根本的に一元的なイメージに囚われて、よく知ろうとしていないし興味の対象の外にあるというのが強い印象である。もちろんそうでない人もたくさんいることもわかっているが。確かに個人の持っているイメージを変えるのは困難かもしれないが、少なくとも一時的な欲求を満たすことと交換条件としてこの構造を見過ごすなんてことはしたくない。

古来、僻地に赴く旅人はそこで泊めてもらう対価として都会の情報を提供していたらしい。現代では衛星通信もインターネットもあり、旅人が提供できる情報にかつてほどの価値はなくなっただろう。シベリアの地にはまだ多くの日本人には知られていない、抑留という言葉なんかとは程遠い、素朴で豊かな生活をしている人たちがいる。自然とともに暮らす生活をする人もいれば最新のゲーム機があったりもする。少しの時間過ごしただけじゃ見きれないほど多様な側面があるにも関わらず、無関心によって一元的な解釈のままによくわからないものカテゴリーにしまい込まれていることがどうしても悔しい。現代の旅人(あるいは聖域を守る人)ができることは見逃されてきたものに焦点を当てるような、古来とは逆方向の情報伝達なのではないかと思う。

なんなら趣味の文脈の中だけではないのだけれど。