#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

ヒロイズム妄想ファッション

ファッションでメンヘラを演じている。絶望の中にいる時だけ頭が冴えているし自我がまともに機能する気がする。いつしかそれに気づいて、気づいたというよりそれを思った瞬間からそれに縛られて、絶望を演じるようになっていた。絶望した!!の誇張した振り付けだけ。絶望の中にいない自分はどこか自分じゃなく、別世界にいるような気がする。だから繕ってでも自分のために絶望を演じる。この世界は確かに地獄だけど、本当に地獄のような見た目をしているけれど、自分が見ているような地獄ってなんでもないようなことなんだろうな、と知っているけれど、いくらでも誇張できてしまう。特別なバックグラウンドがある訳でもアイデンティティに苦しんでいる訳でもなくて、大したことないなんでもない人生の戯言なんだろうな、と達観してみても少しの地獄を大きな地獄に錯覚できてしまうから、わざわざ自分を追い込んでいる。すると一瞬一瞬の感情の疎密波の振幅が大きくなってたまに疲れたりするけど、その疲れも生を実感させてくれる。自称メンヘラ仮想自傷行為で嗜虐心と被虐心を同時に満たせる。それでもいいんだと思っている。世の中の普遍的なものなんて全て虚構。不幸も地獄も本当はなくても、特別なものはなくても、それぞれの絶望を叫んでいればいい。権利も資格もなにも要らない。自分が自分でいられるために、誰かのために生きているような実感があれば良いんだけれど、そんなものは実在しないので、せめて誰かの立場を真似して仮想して誰かの気持ちになってみたいけれど、いつまでも誰のところにもたどり着かないし一体それが何になるのかはわからない。本当はそんなことする権利もないのかな。誰かのためだけに生きていきたいのに、まだ自分すら救えていないから、誰のことも優先できないんだろうな。自分のために演じる絶望も自分のために他者に関わりたい感情も全部見透かされてるんだろうな。誰かのために生きれないのなら死んだ方がマシだ。いくら勉強したっていくら自己研鑽したって誰のためにも生きられない。自分のために時間を使ってどこにも経由されずに自分に還元される袋小路。一体何のための時間なのだろうか。魔法が使えないなら死にたい。誰のことも救えないなら死にたい。誰かを救うことは何も習わない。自分のために生きることしか学んで来なかった。気持ちだけ表明しても誰かに信頼されるような人間として生まれてこなかったんだと思った。つまらない存在のまま死んでいくんだろうな。自己満足なヒロイズム。他者を理解しようとすればするほど言葉に支配されてしまうから認識の領域が規定されて本当の意味からは離れていってしまう辛さ。自分ではなくても誰かがその人のことを理解していると見せかけることはできるだろう。幸せは他の誰かが提供できるだろうけれど私からの幸せは私からじゃないと提供できないと主張してみるけれどそれは他の誰かも同じことで、だけど自分だけが特別な存在として求められたいという自我をどこからか静観している。気づいた自分偉いでしょ褒めてよ。ほんとはただの知識なんだけどね、使い方も知らないの。知らないお前より偉いでしょ、行動してないからお前と一緒だけど。気持ちいいかい?