#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

意志散漫

意思のない人が嫌い。考えない人が嫌い。社会に出るという名目で意思を捨てていく同輩たちを見て悔しくなる。せめて自分はカウンターとして存在していたいと思うけれど、結局バランスの良い方に落ち着いてしまう無力な私は一体このままどれだけ続けられるかわからない。権威主義的思考停止に陥らないためにできることをしたい。

やりたいことはぼんやりと明るく光っているんだと思う。自立した存在として生きて行きたい。何者にも代替されない自分の意思を持つ存在として生きて行きたい。それからこの世界を正当化したい。

どれだけ本を読んでも創作に触れても思考を巡らせても一人では生きて行けない。いつも自分を世界に導いてくれるのは他人だ。どんなに難しい一冊の本よりも他愛ない会話がどれだけ私を豊かにしてくれるだろうか。だからどんなものであろうと関係性は大切にしたい。私の思考や生み出せるもの全てを表現することが世界とのコミュニケーションの方法なんだと思う。何者でもなかった私がコミュニケーションを通して何者かになっていく。コミュニケーションの中で観測された部分だけが他の何者でもない私。

やることは多い。大きく分けて3つ。科学も芸術も冒険も全て自分の中に取り込んで納得行くまでやりたい。科学は論理的解釈の集成として、この世界を他ならぬ自分の目で見る眼差しを捨てないこと。論理を通して外界とのコミュニケーションをとること。芸術は思想のセーブポイントとして、自分の形にならない思想領域を広げるものとして触れたり生み出していきたい。冒険は思想と行為の合流地点として、好奇心を捨てずに取り組むもの。毒キノコは食べたいし不眠の限界も探りたいし極低温に身体を晒したくもなる。ついでに焦点から肉体的要素を取り除いているので肉体的な衰弱を言い訳にはしたくない。

これらを通したコミュニケーションで自分の考えを自立させたいし自立することを提示したい。ここでは自分の思考を言語によって外在化させる試みをしているけれどたまに忘れそうになる。自立するためには自分とは何なのかを記述しなければならないし自分がどのように世界を認識しているのかも明らかにしていきたい。そして何もかもを表現して他人や自分の、どうしても自己を正当化してしまう価値観を揺るがしたい。なかったことにされたって、すぐに閉じられても、見られなくなったって、こんな文章で疲れさせてしまっても、自分が自分でいることをやめられない限りこれは主張し続けるしかない。面白さにも面白くなさにも自分で向き合わなければならない。

あらゆる行為や表現には意味を持たせたいし社会が言語で成り立っている以上はそれは多分可能なんだけれど、他者が謳歌している自由の名目もとに表現者による意味付けは都合よく無化されてしまう。深層心理や欲求には素直でありたいし、誰かの独断によるカテゴライズはされたくはない。分断したいんじゃなくて、可視化されていない楔に意識を向けさせたい。