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「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」

私達はこの言葉を聞いて以来、何者にもなれないどころか、何者かになりすぎたのではないかと思う。ここで言う「何者」かというのは価値の話だ。SNSでは複数のアバターを持ち、本名とは別の名前を持ち、バイオグラフィーに経歴や趣味を書き連ねる。ここでは経歴や趣味など、自らの価値を主張することになる。しかしこれは心の底から自分の価値と同期させる必要はない。単に能力としての自らの価値を表現する場所である。SNSの運用はもはや擬似的な労働となる。プライベートを意味する本名の使用と断絶されるならば、もはや労働の現場と化しているからである。SNSを提供する企業側のロールモデルがそもそもフォロワーを拡大させ、発信力を肥大化させるという再現のない目標を提示している。つまり能力の帰結としての富、さらにそれを蓄積するメタファーとして表される。個人の価値は合理的に数値に置き換えられることとなる。しかし資本主義的ロジックで個人の価値を数値に代替可能であると仮定したここが誤謬なのである。資本主義の内部ではわかりやすさというのはある種の正義であろう。わかりやすさはそれだけで需要の裾野を広げるし、結果として売れるものになる。わかりやすいものだけを消費する社会においてわかりやすさを追求する速度は加速してゆく。価値とはすなわち、ほとんどわかりやすさに置き換えられられたのではないか。最近「〇〇芸人」という言葉をよく耳にする。その人が芸人と呼べるかという議論はさておき、ここで言いたいのはアイデンティティの単一化である。RPGパーティのように、戦士なら武器を、魔法使いなら魔法を用いて闘うように、役割を一つに定めて、それらの能力が横断することはない。「雑種芸人」は存在しないのである。「〇〇芸人」という肩書はわかりやすい。そうやってわかりやすくアレンジされた仮面を使って擬似的な労働としての自己表現をする分には個人の勝手なのだが、問題はそのアバターとしての仮面が人格に投影されていると錯覚してしまうことだ。自己同定は単一の要素抽出によって可能となるのではないということだ。わかりやすさを希求するあまりに個人の人格が単一な要素で構成されていると錯覚してしまうことが危険なのではないか。わからなさに目を向けてみてもよいのではないだろうか。