#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

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見たくないものを好んで見つめてしまう。

見たくないと思うからこそ見つめてしまう。

昔からどんな創作を見ても嫌な部分を見せつけてくる瞬間こそ興奮する。知るかバカうどん。バッドエンドこそリアルな感じがして見るに耐えるものだし、ハッピーエンドしか受け付けないと言う意見が全くわからない。傷口からじゃないと人間の中身って見えなくない?と思ってしまう。人間、外見が表象する面白さはあれど外見それ自体には何の面白さもないから。生々しくてグロテスクな中身だけが面白いから。許されるなら他人の耽美なグロテスクもまじまじと見つめてそれを養分にして生きていきたい。

だから私は私が面白いと思っている自分自身を開示する時に傷口から見せてしまうんだと思う。友達は減る一方。普通人の傷口なんて見たくないと思う。わかる。

何にしろエグい方がリアルだという信仰をしてきているし絶えずエグさに触れているから、そういったものへの耐性が人よりも遥かに高いんだと思う。だからさらにエグさのインフレが起こっていく。他人の傷口を見て消費するという行為への悪辣さは認識しているが故に自分の傷口を見て自分を消費することへの罪悪感は回避される。自分の傷口を自分で見ることはそれだけで自分を消費して痛めつけているという嗜虐心と痛めつけられている自分を認知する被虐心を両方満たすことができる。だからこそ、誰も望んではいないと思うけれど、私は消費されたいという欲求がある。

強度がかなりバグってるから、大抵の人が引いてしまうような場面も平気で笑っていられるのだと思う。だから平気で人にグロテスクを見せつけられるのだと思う。友達は減る一方。わかるわかる。没入してもらえるならば擬似的に地獄を体感してほしいけれど、あんまりそこまでしてくれる人はいないだろうな。表現力の拙さもあるし。

多分大したことないけれど、開示せざるを得ない切実さ。ごめん。笑。

見せたくないものを好んで見せつけてしまう。

見せたくないと思うからこそ見せつけてしまう。