#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

禁教崩国

ゼロ年代エロゲソングでしか満たせない心の隙間を作ってしまったがためにそこから腐り始める予感がしている。研究に対して報酬などがあればこんなに疲弊することもなかったのかなとか考えてみる。全て自分事として解釈せざるを得ないから加減を知らないし終われない。無賃労働を搾取して維持される資本主義の断片。やりがいの前に生き甲斐が存在していない日々。依存労働の一形態。常時接続可能な研究に侵食された私的空間。やりたいことが特にないなら推薦を取れって言われたけれど、やりたいことが多すぎて決めきれないと思ってたのは認識違いなのだろうか。しかしまとまらないなら前者にカテゴライズされるのだろうか。言語化しすぎて言語化出来ないらしい。それで結局何が出来るんだっけ?自己研鑽だと思って浪費してきた時間が自分の範囲を狭める行為だったのは皮肉すぎる。暫くずっと他人の評価に依存してきたツケなのか?自分の能力も自分で評価できなくなってる。やられたね。だから評価じゃない誰かの愛情が欲しかった。それも過去の話なんだろうか。優しさだけがギリギリ自分だと思ってたけど、付き合いきれる範囲でやってくれ。全員疲弊させてるだけだから。何度も丁寧に繰り返し繰り返し。擦り傷と打撲の痛みだけが生の実感。釣り鐘の端っこの方だから、生きること自体を練習と言って本気を回避している。私ができることも私がやりたいこともイメージがわかないからパスを繰り返した。そのままでは済まされず、ドローさせられるんだと思った。そうか、常にある負債を消していくための努力なんだな。だからセカイは私を殺さずに延命させる。自分が面白いと言った時点で精々それくらいにしか面白くはない。