#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

バーチャルアバター

静かな春の夜風に当たるのが好き。自転車に付いたダイナモライトの音と街頭の光に包み込まれた空間が好きだ。

私にとって夜に自転車を走らせるのは国道1号を時間内に走り切るためのナイトランじゃなくて、世界も自分も許せる心地よい時間なんだと思う。昼のような喧騒とは違う世界。無意識的な反復運動は身体を意識から解放してくれる。

 

だから自転車を走らせる場所はどこでも良かったし、自転車は移動の手段だと思わない。自転車というもの自体、移動という目的があってそこから乗り物の中で選択されたものではないから、例えばツーリングや旅行の手段として比較されて選ばれたというわけではない。自分にとって自転車は乗り物というより装具と行った方が良い。装具と言っても不足を補う眼鏡や義肢のようなものでもない。精神はそのままに世界と向き合うための接点として用意された別の身体、まさにバーチャルアバター

 

私はどこかへ行くとかなりの割合で自転車の写真を撮る。自転車と私ではなく。自転車に乗ってそこまで辿り着いた私でもない。自転車こそがまさしくその空間における身体だから、景色を背景にして自転車だけを自撮りする。肉体的達成感はない。精神と代替された身体は出来るだけ融合させたいから自転車に名前は付けないし、パーツは常に好きなものに着せ替えたい。

 

自分の生身の肉体を別の身体にすり替えて、それではじめてちゃんと世界に対峙できる気がするのは、根底に肉体への嫌悪があるんだと思う。自分のスマホの写真をスクロールしても意識が人に向いてないなんていう話もあったけれど、もちろん自分の写真もなく景色と自転車の写真が大半を占めている。それでも別に人間が嫌いというわけでもないしむしろ人間は好き。このちぐはぐは何なのかと考えてみると、人間の精神面は好きだけど肉体も好きだけど、自分の肉体は好きじゃないから他の人の肉体を見る事が出来ないんだと思った。見るという行為は見るという行為をするかどうかという前段階から行為に至るまで評価ありきの事だから、見たくない自分の肉体を通して他人の肉体を見るということへの罪悪感から人の肉体もあんまり見るもんじゃないと思っている。だからルッキズムを否定したくなるけれど、自分が一番ルッキズムに囚われているからこその否定でもある。それでも自転車に乗っていると精神を純粋に世界と繋げられる気がする。嫌いな生身の肉体ひとつだけだと精神がそこに閉じ込められたままになると思うから自転車に乗れて良かった。

 

ツアーは非日常とみな言うけれど、私にとってツアーは自転車を身体の主軸とするならば超現実だと思う。世界を通してオートマティックな反復運動に刺激されて内的な精神世界が自動的に記述されるものだ。だから主体性が確保された旅とは性質が異なる。虚構世界として分類するならば全体の造形をその場その場で修整しながら整形していくフィクションと、モノと性質と条件のみで全体の結果を導くシミュレーションという分け方があるけれど、自転車に乗るときには専らシミュレーション性の方に偏りがある。自転車はバーチャルアバターだからツアーでは精神とルートに予めシミュレートされた動き方をする。そして自転車というオブジェによるツアーでは再現性を追究する。旅情溢れるフィクションではなくシステム化されたシミュレーション。旅も好きだけれど、自転車に乗ると旅とは分離して考えてしまう。おそらくフィクションの方に一般的な覇権はあるのだと思うけれど、私が見たい世界は主体や肉体によらない客観的な世界と私の深層心理に眠る心なんだと思う。けれどもそれは修正の効かない結果をもたらすこともあるから、気持ち良い麻薬だと思う。