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日常系ゆるふわ思い付きブログ

シュルレアリスムとシュールな笑い

シュルレアリスム…心の純粋な自動現象(オートマティスム)であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の動きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書き取り。

日本語では「超現実」と訳されるこの概念は1919年にフランスでアンドレ・ブルトンという人が提唱した。フロイトによる夢の精神分析では人間の心理が共通同一の原理で働いており、人の行動には無意識的な要素が作用しているということが解明された。ちょうどフランスでは大戦から人がモノのように扱われるという経験をし、戦争で心に傷を負った人々から表出する非合理で不可思議な深層心理というもをブルトンは目の当たりにした。

さて、人間の本性とはどこにあるのだろうか。

我々が普段接している現実とは決して自明なものではなく、主観的・個人的な時間空間を惰性的に見つけ、共有してなんとかやりくりしているだけではないのか。人と人のコミュニケーションも習慣や社交性の努力によってなんとかなされる程度のものであって、一時的に混乱を回避しているにすぎないのではないか。人間とは本来理解できないものではないのだろうか。

現実と称するこの主観の入り混じった世界へのアンチテーゼとして、深層心理として現れる未知のもの、不可思議な驚きのある世界こそが追求すべき客観的な世界なのではないだろうか。

シュルレアリスムとはこういった、法則やシステムに左右されない、主観による介入のない客体の関係性のみによる世界である。

ふと現実においても未知と遭遇することがある。看板や木が人に見えたり、空耳が聞こえたりする。そして夢を見る。超現実の世界は非現実の世界ではなく、不可思議な感覚を通して現実とつながっている。そしてこの不可思議な感覚から人間の深層心理からくる恐怖や異常なものや偶然への好みが現れている。特に幼少期というのは、自我がはっきりせずに、不可思議な世界と現実が溶け合ったような時間である。

超現実の世界に没入する手段として、主観的な思考を通さずに客体(オブジェ)の世界を作り出すという方法がある。思考を通さない瞬発的な表現方法である。オートマティスムとよばれる。
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(ミロ、ハーレクインのカーニバル)

また、オブジェとオブジェを客観的に見ながら結びつけたり切り離したりするコラージュという方法もある。

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(劇団イヌカレー魔法少女まどか★マギカ)

さらにオブジェが本来あるべき環境とは別のところに配置されることで違和を生じさせるデペイズマンという方法もある。
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(キリコ、愛の歌)

こうした表現を通じてオブジェとオブジェの、偶然的親和性や違和感、不可思議な感覚や恐怖が呼び覚まされる。主観に基づかない客体同士の偶然の出会いを理性の制約なしに承認することに愛がある。シュルレアリスムは別のところにある生の本質を呼び覚ますものである。

 

さて、機知のある笑いというものは日常の張りつめられた予期の中で、何らかの出来事を通して日常での抑圧を無へと転化する解放の動作である。人は社会の中で攻撃性や性欲の制止・抑圧を維持することによって自己を正当化している。社会性を保った自我が不条理の存在との出会いによって自己の立場が揺らぎ、抑圧から解放されることを望んでいるものだ。理性は無意味で不可思議な超現実の世界へと解放されることでストレスを発散させる。

シュールなものが理性的な自我あるいは主観に支配された現実を一時的に攻撃対象として受け手に同意を促すことで、心理的抑圧状態にあった受け手の精神的なエネルギーは笑いによって解放される。

 

ここまで来るとシュルレアリスムからシュールな笑いが呼び起こされることがわかる。

幼少期の言葉遊びは機知のテクニックとして自然と学習されるものだろう。幼少期のおぼろげな世界観や夢や無意識によって加工される。大人であっても、社会的抑圧を開放したいという欲求によりナンセンスな言葉遊びの感覚を鋭敏にする。

未知のものや本来の環境下にないものに対する違和感や恐怖から驚きや不安がふと呼び起こされる時にこそ、客体同士の関係性であったり、超現実的な想像力が喚起される(コラージュ、デペイズマン)。

あるいは同じ言葉や動作の繰り返しによって意味の内容がおぼろげになり、別の意味を発生させてしまうこともある。すると違和感を生じさせるものが突然侵入してくることになり、意味の合理性と非合理性の間で精神が揺さぶられ、不可思議な世界へと導かれる。

しかし、こうして超現実の世界と誘われるだけでは笑いにはならない。

人の精神は一旦踏み入れた不可思議な世界から離脱して帰って来なければならない。もしも笑いを希求する場で不可思議な世界に留まり続けるとしたら恐怖や不安に苛まれるだろう。

不可思議な世界から離脱するにはまず笑いの標点に対して親しみを感じなければならない。親しみを感じることによって、相対的に自分の立ち位置を把握することで不可思議な世界から離脱できないかもしれないという不安を抱かずに済む。

さらに、暫定的であることも必要である。笑いの空間の中で起きている事象が暫定的であることが担保されていなければ安心して無防備に笑うことはできない。

そして笑いの標点には非当事者性があるということも必要である。笑いは対象(それが理性的な自我であっても)に対する優越的な意識を前提とするものであって、切迫した自己そのものに対して笑うことはできない。

シュールな笑いとは、非合理的で不可思議なものとの出会いから現実に引き帰せるだけの担保があるときに、切迫した自己ではないものを通して抑圧された心を解放して精算する手段なのである。