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日常系ゆるふわ思い付きブログ

自自己己肯肯定定感感

自己肯定感という言葉をよく聞くようになった。自分は自己肯定感が低いという文脈でよく耳にするが、熟慮せずにつられて私もそうだと言いそうになることがよくある。

自己肯定感とは多義的に用いられる言葉らしく、自尊心や自己の価値や存在の肯定的感情だけでなく、自らによる単純な存在の承認の感情という意味でもあるらしい。誰がどのように言葉を使用しているのか判りかねるが、自分の場合は必ずしも自己肯定が低いような感じではない気がしている。

まず自尊心について、自分を尊重するという点においては、かなり他人本位で行動しているような気がするので、欠如していると思われる。他人の顔色を覗いながら意思決定を行う(あるいは行っていない)ことが多い。あるいは主体的に意思決定する場面においては、感情に左右される部分が多い。怒りや喜びのような原始的な感情というよりもムードというような複合的でコントロールが難しいばらつきの大きい感情が作用している。したがって、意思決定を他人や自分のそのときの状況に応じたムードに強く依存しているという点で、自尊心は欠如している。

続いて、価値や存在の肯定的感情について。これもムードが支配的であるような気はする。上手く行っているときは自分の価値や存在を認められるが、その逆のパターンも往々にしてある。恒常的なものなのだろうかという疑問がある。いや、相対的にどういう状況の時が多いのかというようなものなのかもしれない。価値も存在も他人から観測され評価されることから生まれるから、自分で肯定も否定も出来るというならば既に自己の存在を観測されうるものであると肯定的に解釈していることになりそうである。ということで存在自体が観測されうるという肯定とその上で価値や存在に対する肯定という二重のレイヤーがあるように思えてくる。するとここはひとまず最後の自己の存在の承認についてまず考えるべきだ。

自己肯定感に関してはこのように曖昧ではあるが、自己否定感については強固なものがあると思う。私のアイデンティティを形成しているのはかなりの部分で自己否定感だと思う。自己否定により存在そのものの罪悪感を緩和していると考えている。現状の自己を否定することが生きる原動力だという風にも言える。現在の自己を肯定的に捉えてしまうと一気に生きる意味を失ってしまうと危惧している。現在を否定するからこそ罪悪への修正のために仕方なく生きるしかなくなってくるという感覚。と考えると存在自体の承認は強固なようである。では別のレイヤーに移り、自分の価値や存在について否定的であるかというとそうでもないような気もする。アイデンティティを形成している自己否定は存在自体の承認と自己の悪徳的な罪の部分への否定である。自分の価値を肯定的にも解釈していないと罪を罪として否定して修正するという行為はできないのではないか。罪を修正する先に自己肯定があると信奉しているからこその行為ではないか。したがって自己肯定というものの存在は承認される。だから自分の価値や存在について肯定的感情ありきの否定とも取れる。だからこそ未来型である肯定的感情への期待がムードによって盛衰し、価値や存在が肯定されたり否定されたりする。未来への自己肯定と現在の自己否定が共存している。さらに細かく天下りしていくと価値の中に能力的価値や対人の感情的価値が含まれており、それらは個別の事象でありさらに下層のレイヤーである。それらを統括した価値や存在についての肯定や否定である。自己肯定感の解釈の複雑さはこのような多重構造とムードなどを飛び越えた肯定と否定の共存によるものだと思う。例えば今自分語りしている時は自己の存在は承認し、価値や存在は未来の肯定故に現在は否定。