打ち上げ花火、慣性系から見るか?非完成系から見るか?
ますます暴力的になるSNS、誹謗中傷の嵐、集中攻撃するメディアと国民層参加型のバッシングはもはや現代人の娯楽である。あなたは何に加担し、何を正義とするだろうか。
想像力は生きているか。
誰でもあらゆる情報にアクセスできる時代は誰でもが情報を操作できる時代でもある。一見多様化が推奨され、個人の自由の元に選択権を委ねられているという建前。
私達の判断基準は協調性の支配の下から開放されているのだろうか。
あなたの正義は誰のための正義だろうか。
断片的な知識の集成としてのペーパーテストや画一化された道徳教育により「正解を導き出す」過程よりも「正解を貰う」ことに価値を見出してきた。これを崇高な「努力」の結果として誤認してはいないだろうか。
想像というのは頭で考えて哀れだとか遺憾の意を表明することではない。
心で他者に寄り添うことである。
日々私達の前を通り過ぎるニュースも自分の身近に実感できるものでない限りは見過ごしてしまう。功利主義の競争社会では自分の事で精一杯だ。直接利益をもたらさないような他者には寄り添わないことが自分だけの成功の最短経路である。逆に他者を規定することは内々の結束を確認し、自分の立ち位置を正当化するのに寄与する。なんなら自己を正当化するためだけに情報を取捨選択している。
自己正当化に邁進した私達の末路は想像力の欠如や無関心として表出している。そんなことはないと啖呵を切るあなた(私)こそ。
あらゆることにおいて他者は自分の中にしかいない。