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民族とは言語、宗教、習慣、歴史意識などを共有する集団である。しかしこれらの要素は集団によって一様に扱われているのではなく、個人単位で認識され、使用されて、その結果として集団を形成している。すなわち重要なのはその特定の宗教を信仰していたり言語を使用していたりするという自覚とそれに伴う帰属意識である。人間は特定の宗教を信仰しながら生まれては来ない。言語を使用するまでの期間も習慣に従って生活するまでの期間も存在する。つまり帰属意識を伴って出生してこない以上、個人単位で帰属意識を持つタイミングが存在するはずである。

日本は単一民族国家というプロパガンダにより国家形成を行ってきた歴史から混同しがちだが、国民という概念はまた別にある。国家が規定する国民というものには帰属意識は関係がない。帰属意識がなくても例えば日本であれば出生地に基づいて国民となる権利が与えられる。

人間が集団を形成するというのは、集団の内側に対しても外側に対してもある種暴力的な強制力を獲得することであると思う。国家にしろ民族にしろ暴力的である。集団を形成するのは自衛の手段であるとも言える。自衛の手段として集団を結成し、結束させるための理由付けとして本来個人レベルの営為である言語や宗教や習慣による類似性を見出して帰属意識を醸成している。集団に帰属意識を持つというのは本能的な戦略であろう。

民族というのは現代においては法律上は明確に定義がなされたりする。しかし民族を規定しようと思うと、帰属意識という厳密には言語化不可能な領域である個人レベルの認識が含まれるから、言語を用いて境界線を引くというのは不可能ということになる。いよいよ民族というものがファジィな集合ということがわかってくる。

したがって私達が好んで言う民族というものは恣意的に規定されたものに他ならない。暴力的に自衛する人間によって帰属意識の統合による結集が図られている。

民族的多様性が元からあるということではなくて、個人の多様性があり、そこに恣意的な線引きがなされている。ゆらぎを持つような概念だからこそ比較的容易に帰属意識を植え付けることも可能である。問題を暴力的に解決しようと企図するとき、恣意的に認識を植え付けて人を結集させるのは困難ではない。

民族への帰属意識が後天的に植え付けられたものであるにも関わらず、人間はひとりでは生きていけないようで、帰属意識を持たない人間も存在しない。だから民族という枠組みを越えて考えることは難しいとしても、私達の意識がどこに帰属しているかということを考えることは、恣意性に立ち向かうことでもあるし、なぜ集団での暴力に与するかを考えるということもである。