#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

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私も誰かとこんな風になりたかった。

昔よく聴いていたフレーズを喉から絞り出して、昔から好きな短編集の漫画を本棚にしまう。いつだって好きなものは変わらなかったけれど、やり場のない思いは自分の中に閉じ込めるしか行き先を与えられなくて、ちょっと広めの一人部屋の片隅に綺麗に収まってる。

一方向に積み重なって、終わりも見えてきた。大事にしてたのは嘘ではないけれど、大事なものだからこそ天秤にかけてしまった。

自分の都合で愛するだけの少しの自由が、他の不自由を強く共鳴させる。

塞がったピアスホールには私の夢が埋まってる。夢はいつでも手の届く範囲にあるようで、本当は空虚だった。もう開けることもないな。あの頃の私は今でも可能性を捨てずに自分の中にいる。だからこそ今でも自分自身を牢獄に閉じ込めているという事実を、希望で観測するんじゃなくて自省する時が来ているんだと思う。いや、ずっと逃げて来たんだ。この先もずっと贖罪という言い訳で自分を閉じ込めていくような気がしてる。

最近になってようやく出会った人全員の目を見て話すことは出来るようになったけれど、見せかけの博愛はそれだけでは何の特別も生まなくて、ますます自分が誰にとっても些末な存在になってゆく過程がその人の目に映し出されるのが見えるようになった。もうそれすら何も思わなくなったことに悲しむ余裕もない。

私はいつから消えたんだっけ。

林檎の食感は覚えている。スーパーで買う気にはあんまりなれないから、家に帰って林檎の絵をじっと見つめる。

生き方を提示出来るほどは普通ではないし、生き方を提示出来るほどは特別でもない。中途半端で不安定なバランスのままで、この資本主義が形成した城下町の夜景の一つを構成する。

好きなのはその人のようであって、その人の言動や思想だったりその人の風貌だった。自分が作り出した神話に寄り添ってくれる誰でもないそこにいる誰かを求めてたんだろう。自分の中の物語を投影するならそれが誰だって良かった。必要なのは都合の良い依代だけ。

今日の会議では褒められたけれど、そんな普通の実務能力を認められてしまうと自分が益々狭まっていく気がしてきた。いや、自分がやることなんてそれくらいで、なのんためか誰のためかはわからないけれど、せいぜい自分の生命を繋ぐために食べていくだけ。そんなこんなで一日は死にたくなるくらいに長いのに数十年は死にたくなることなんか考えられないくらいに短かった。

嫌いなものも随分増えたけれど、選択的に嫌いなものに触れないで済むようになっただけだ。世間がそうしているように、個人主義は選択の問題にすり替わって、私もいつからかその構造の中でVRを見ながら安らかに横になっている。

やっと繋いだこの糸は、私と誰かを繋いでいると思ったけれど、たどってみると私の小指と心臓を繋いでいる。強く引っ張ってみれば、小指か心臓のどちらかが千切れると思って引っ張ってみたけれど、憎らしくも伸ばした腕よりも糸の方がずっと長くて、まだまだ糸は弛んだままだった。