業
プログラムをいじっては解析を回し、また少し改良しては解析を回すのを繰り返す日々。実質の作業量はほとんどなく、解析時間に大部分の時間が割かれる。解析中はかなりゆとりがあるので読書とそれについての考察が捗る。大学の図書館を使えるうちに使っておきたいのでそういう意味では次々にやりたいことが溢れてくる。そんなほとんどソクラテスのような生活を送っています今日この頃。
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何故考える事をやめられないのか。
何故ここに記述するのか。
私の場合、“残念ながら”それは競走に勝つためにやっていると言わざるを得ない。
長らく偏った男性社会に居座りすぎたせいでもあるし幼少期から身体化されすぎた男性性のせいでもあるだろうけど、競走に勝たなければならないと洗脳されているのはよく実感してしまう。
何を考えても何をしても少年ジャンプや徒競走の世界観から抜け出すことは出来ない。
何をやっていても競走してしまう。
ジェンダーについて考えることは競走に従事する男性社会を考えることだし自分について考える事でもある。女性性という観点から相対化して考えるということもある。
社会について、グループについて、個人について考えることは他人を出し抜く戦略である。
そして自分が選択している基本的戦略も自覚している。
フィジカル不足な自分の戦略は差異化である。
他人や社会の思考や行動規範を考えることで自分はそこから別の戦略を取ることで競走に勝つ気でいる。
しかし勝ちに拘ることほど自己満足的で虚しいこともないことを自覚している。だがやめられないのだ。
いくら負け続けてもメタで精神的マウントを取ることもしてしまう。永遠に競走という心理の規範が追いかけてくるものだ。
競走によって疲労している。
しかし競走から逃れられる空間も存在していることを認識している。
承認を得る方法である。
競走のない承認を得られるような空間を築くこと。ここでの記述は内面を表出させる恥ずかしさを克服するための「生きる練習」である。
私にとって(私の分析が妥当であるなら男にとって)恥ずかしさというものは負けを感じた時の生理反応である。
負けることを克服することが解脱への道である。承認されればの話であるけれども。
つまりは私(男)の世界観のもとで言えば、負けた私を誰かが承認してくれることが解脱である。
社会に構成する一員としてはそれは競走から逃れる一時的なシェルターでしかないのだが。
おそらく解脱は出来ない。そして共感の世界への憧れ。