#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

ジャンプ力

最近は鬼滅の刃がとてつもなくヒットしたが、テレビも見ずに自分でアレンジしたTwitter世界にしか居ない私には依然として最近流行っているらしい何か得体の知れないものでしかない。

いくら既知のものという扱いをしても今から観ることもないと思う。

かろうじて今までもそうやって生きてきたので。

 

ところでジャンプの読者層は7割が10代らしい。私の所感では20代もかなり読んでいる印象だが、10代の頃に読んでいた過去の作品について言及している印象からか、精神年齢が低い人が多いのかはわからない。

しかしそんなことは問題ではなく、読者ターゲットが成長途上の少年ということである。

ジャンプというのは度々社会現象と呼ばれるくらいにまで影響を及ぼすらしい。恐ろしく社会的影響力の高い媒体であることは否定しようがないくらいのもの。

すると大衆化された少年像を作るのはジャンプであるとも言えるだろう。

読者は必ずしも登場人物などではなく、「友情」「努力」「勝利」という方程式に自己を投影する。いや、してしまうのがジャンプである。

テンプレであろうが捻りを効かせた展開であろうが、気持ちいいものを気持ちよく解釈するものだ。

私は個々の作品についてはあまり知らない。ジャンプという記号についてのイメージだけで語ることになるが、この「友情」「努力」「勝利 」が競走至上主義な、いわゆる“男の子の国のルール”そのものであり、まさしく社会に要請される少年像であるだろう。

この3つは並列ではない。肝心なのは「勝利」であって、無情にも「友情」や「努力」はその手段に過ぎない。

もっとも、この2つが競走に勝つための手段として非常に強力であることも少年に向けて示唆している。

人物像にしても知性で敵を凌駕する。

しかも知性は肉体的成長とリンクしており、肉体的成長が知性の成長として還元されている。

友情や努力を通して成長して行く末に勝利があるために、少年は元より太い線であらねばならない。つまり友情を無下にするような性格ではないし努力に向けて逡巡している無駄さもない。

常にスマートに主体性を持って勝利を手に入れる。

 

 

閑話休題

 

 

さて、私はというとそんなジャンプからは逃げるように生きてきた。普通の大衆的な社会でしか生きてきていないし周りはジャンプの話ばかりであったけれども。

不思議とまともに評価基準も持たない頃からジャンプというものを敬遠していた。

競走社会へのコンプレックスからだと思う。常に何かに負け続けて悔しい思いをした人生ではなかったけれども、なんとか競走の中から引きずり下ろされずに走ってきたからこそ、そこで醸成される敵対意識や味わった徒労に耐えられなかったんだと思う。

勝利できない競走からは逃げ出したくて仕方がなかった。

ジャンプは割り切った読者アンケートによる序列をも体現している。苦手だ。

負ける前に逃げることで生きてゆくという術を知っていたから、ジャンプも読まず、ジャンプにならず、ジャンプ力も願わなかった。

言い訳がましくもはっきり告白するが、その経緯の根源は身体性であると今では分析できる。

身体が人の全てを表象する訳ではないが、身体と精神が不可分であるということは見逃してはならない。

自分の肉体を見てジャンプ力のなさを悟ったときがジャンプを読まないと決めた時なんだと思う。

一番のコンプレックスはジャンプを読まないことではなく、実際にジャンプ力がないことだ。

さて、ジャンプを読まない少年に人権はあるか。

まあ言ってしまえば人権はある。

世の中の日陰にはジャンプ以外もあるから。

いやしかしこちらは反テンプレなルートだ。

友情も努力もおあつらえ向きではない。

手段を探すところから始めなければならない。

線が細い。成長過程のバグ。

いやしかし、ジャンプ力がないならないで競走には参加しなければならないという事実も薄々気づいている。

 

 

閑話休題

 

 

では全てを手に入れた、私のコンプレックスたるジャンプとは何か。

それは競走する主体。主体が見えない程の主体。狂おしいほどの主体。ジャンプは選択をしない。読者投票だから客観視の手間がない。

私たちの競走社会はサルのコロニーの大規模バージョンで、階層も人の数に応じて複雑である。そんな一方向を基底としたピラミッドがあるからこそ競走や勝利が成立する。そしてコロニーに属していれば競走からは逃げられない。

ジャンプ力のない者はジャンプ力のある者に従属するしかない。辛い。

だから基底方向の王道があれば邪道も一応はある訳で正当な文脈があるから逸脱できてるとも言える。

いやしかし、どう考えてもサルのコロニーにいる限りはそのルールでしか考えてられないので、王道には否定する箇所がない。努力も友情も勝利も全くもって批判の余地もない。

だからこそ嫉妬の対象になる。故に私は構造や価値観に疑義をかけるしかない。

一体何人が私の頭上をジャンプして行ったのだろうか。見なかったことにして地面を仰ぐ。