#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

危うく投稿するところだった文章

序文

悪戯に距離を稼いでも一人で自転車と向かい合っていても何か不完全燃焼な感覚と孤独が付き纏う時期。サイクリング部員として充実した活動をしてきても些か単調さに空虚を感じてしまう時期は誰しもあるのではないかと思う。ツアーに行ってまで日常と同じ尺度の楽しさに耽るのは一時の寂しさを感じてしまう。だからこそその楽しさの本質として自分と部との関係や自分と自転車との関係は常に考慮されるべきだ。そして根源的な自己の、絶えず続く欲求と向き合い続けねばならない。こうして趣味としてやるということはそれ以上のものは求められ得ないということでもある。何がしたくて何をするかのみを追求してさえいれば良い。この基本に帰るまでにどれほどの時間を費やしどれほどの回り道をしただろう。結果から言えばそれは無駄な道程ではなかったのだが。私にとって自転車は昔から思慮に耽る場所だったのだと思う。自転車に乗っている時間というのはそこにある土地に対して相対運動していく中で認識される景色と自意識が隔絶されて、自己の輪郭が再構築されるときである。絶えず続く欲求とは身体と外界との直接的な接触による自己の再構築である。特に既知の世界からできるだけ離れた場所であればあるほど自己の輪郭として“新しい線が引ける”のである。自転車に乗ることや厳冬期のシベリアに行くことは生きる上で自分と外界との関係性を考えるための一つの課題であるともいえる。そして各々に程度の差はあれ、ツアーを経て自己の認識が変容し、再構築されることは普遍性のあるテーマではないかと思える。同じ課題に取り組む仲間がいれば思考を共有できる上に相対化も図れるだろう。この読者には冬のシベリアに自転車でツアーに行くことが途方もないことに思えるかもしれない。あるいは未来にはこれくらいのことは当たり前になっているかもしれない。いずれにしろ重要なのは課題の大きさよりも自分の意志である。

実現可能性が曖昧な時の必要な準備は以下に尽きる。
−目的は何か。考えたり話し合ったりすれば自ずと明確になってくるだろう。もしわからないなら行動は慎む方が良い。目的があるから課題があり解決法がある。何故そうするのかという上位の概念と、どのようにそうするのかという従属する概念は区別されるべきだが、往々にして手段が目的化してしまう時がある。このことには常に自覚的にならなければいけない。
−責任を取れるか。否。如何なるときも自分の身体は自分で守って欲しいと切に願う。自分以外の誰にも責任を押し付けないことが何よりも責任ある行為だと思う。班長として班員に対して責任があるとすれば誠実に対応することと満足させることくらいだろうか。
−リスクに対処できるか。リスクについて考えることは物事の条件や蓋然性を適切に評価することである。まずは自分が晒されそうな状況や環境を知らなければならない。どのような方法であれ思考は顕在化して共有しておくのが良いだろう。そして現実問題として具体的な対応策は存在するか検討すべきである。