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「女子力」とは何か

女子力の歴史

ここ20年ほどで女性の社会進出と相俟ってすっかり日常的に使用されるに至ったこの「女子力」という言葉は何を意味するのか。2009年に流行語大賞にノミネートされたこの言葉は、今や多少古くなった言葉かもしれないが、今こそその盛衰を振り返ってみても良いだろう。女子力という言葉は現代に何をもたらしたのか、そして何を内包していたのか。

Wikipediaによれば「現代という時代の文化的価値を背景にした女性らしさという共同主観のことであり、ある種の神話体系」とある。人によって定義が違うという印象もあるかもしれない。

2001年に漫画家の安野モヨコがエッセイで用いたのが初出だそうだ。いくら漫画家として成功を収めたとしてもパーティーでちやほやされるのは容姿の良い女性ばかりだという場面に遭遇し女子力を上げることを決意したという。

まずはファッション誌などによる用いられ方に着目する。時代を経るにつれ、意味の範囲が拡張されてきた。そのために今や多義的な言葉となっているのだ。

まず初期には安野モヨコが用いたように「モテる」という意味で語られていた。特に恋愛における男性指向であるといえる。

次に「美を追求する」という方向で語られることになる。これは必ずしも男性指向という訳ではなく自分指向、あるいは同性である女性指向のものである。美を追求することで自己肯定感を上げることや同性間の連帯を高めることに主眼が置かれる。あるいは女性の間で容姿によるグループ分けがなされたり容姿による階層化がなされたりすることに関係する。そして時には男性を自分の美の追求のためには利用するといった言説もあったようだ。

次に語られたのは「自分磨き」という方向性である。もはや美という範疇を越えて、自分の(特に女子としての)能力を向上させる努力についての言及である。女子会を通しての向上心や共感に基づく団結があった反面、向上心の持たない層は排除の対象となったとも言えるらしい。こちらも自分指向や女性指向ではあるが、それに加えて仕事指向も加えられるだろう。

最後に登場したのが能力向上の先にあるものとして、「キャリア」に対する意識である。女性の社会進出および昇進により能力主義社会においては女性間でも差別化が起こったと言える。

 

「女子」

ところで、「女子」という言葉は何を示すだろうか。何故「女性」ではないのか。

これは学校時代の男女平等の頃の記憶である。学校時代というのは「女子」「男子」の区分が平等な社会であった。つまり資本主義的な生産性を前提としている大人社会のようにジェンダー規範を強いられることは少なく、自分らしさあるいは主体性が幾分か保証されていた頃の記憶である。

 

「美の神話」

美の神話とは、価値基準をモテることに置かずに美そのものに絶対的価値を置くという女子の中にある一定のルールらしい。

これは化粧品メーカーや美容業界による消費行動促進の策略とも結びついている。

さらに美の神話に取り憑かれた女子は容姿を廻って対立するということもあるらしい。自分より容姿の良い同性には嫉妬し、自分より容姿の劣った同性は無視する。こうして同性同士で連帯することの妨げにもなるようだ。

こうした美を追求する志向が女子力という言葉を増強していったのではないだろうか。

 

女子力を持って社会進出した時

では女子力を会得した女子たちは社会に進出して、どのような状況になったのだろうか。まず女子力が推し進めたものは女性のエンパワメントであり主体性である。女子スポーツへの注目も高まりを見せた。

モテるための指向からキャリアのための指向となり客体から主体への転換を見事に表現した女子力、そして主体的に社会に進出したその先には女性間においても能力による差別化が待ち受けていたはずである。

現代はかつての家や地域の共同体からは切り離され、都市部への進出も相俟って個人の時代である。もはや誰しも拠り所は個人の能力にしかないのである。

さらに細かく職場での立場を見ていくと、単純に女性が主体的に力を持ったという訳ではないことがわかる。

例えば必ずしも容姿を必要としない現場でも容姿を求められているのではないだろうか。化粧をして出社することやヒール履いて仕事することなど、選択の余地なく課されていることはないだろうか。これは「美の職業資格」と言われ、あたかも美を意識していなければ仕事することも適わないという風である。SNSなどを通してもこういった現状に疲弊してきているのが窺える。

また、職場での“女子的能力”を要求されることもあるだろう。例えば女性としての意見を要求されるだとか、明るい雰囲気作りを要求されるといったことはあるのではないか。こちらは肉体労働や知的労働と比較して「感情労働」と言われ、感情を労働力とするものである。やはり女性のというだけで容姿だけでなく感情すらも作ることを背負わされて感情労働を強いられる女性たちは疲弊しているだろう。

そして家事においても女性の仕事とされる側面は根強い。家事と仕事の両立という方向でも女子力という言葉は使われている例がある。

労働環境全体においても、男女の格差が是正されたという印象はない。依然として生産性を前提とした資本主義社会においては対価の支払われない介護や看護などのケアの職業の男女比率は大きいままである。ケアのような承認の立場を女性一方が担っているのが現状である。

このように女子力という言葉は女性の社会進出を推進したものではないにせよ、時代を反映した言葉であると言えるだろう。また、社会は女性をどのように見ているかという規範も明らかにしただろう。

 

言葉の使用

さて、ある程度は作為的な雑誌による女子力という言葉の範疇から外れて、私的領域では実際どのような使われ方をしているのだろうか。

興味深いことに大学生によるアンケートの結果によると男女別で使い方に差があるらしい。まず女性が女子力から連想されるものは「ネイルをしている」「化粧をしている」「お洒落」などである。要するに傾向として外見重視であるようだ。主体として美を追求してきた者としての感覚だろう。

一方で男性が連想するものは「気が利く」「言葉遣いが綺麗」などで、傾向としては内面重視であるようだ。男性と同じ競争社会のフィールドにはいないという前提が窺える。

男子の幼少期の発育過程では自分が世界の中心であり周りの男子との競争を経て成長していくという。逆に女子は幼少期の発育過程で自己抑制を覚えるという。女子の社会というのは同調社会であり、いかに主体性を消して周りを尊重できるかということに比重が置かれるらしい。故に大人になった時、過剰な女子力は排除の対象となることもある。

 

まとめ

女性の社会進出やそれに伴う女子力という言葉の盛り上がりは女性を幸せにしたのだろうか。女子力という言葉は端的にはジェンダー規範と能力主義の結合によって生み出され意味を付加されていったものだろう。

女性の社会進出および共同体からの解放による自立の時代の流れに伴って女性のエンパワメントを推進した。このような客体から主体への転換は起きたものの、良妻賢母や職場での立ち振る舞いといった従来的なジェンダー規範は根付いており、感情労働などを強いられる現状からみても強固なジェンダー観の再生産になっているという側面もある。さらに努力信仰に基づく能力主義や実際の雇用機会の均等化などにより、ジェンダー観が再生産されているという構造は不可視化されている。事実として、法律上は男女の雇用機会は均等にしているがその他の差別自体については進歩していない。より身近な環境下においては、統計に基づいた特性と個人の特性を分離出来ていないところにこの歪みの原因があるように思える。

さらに、近年の現象として専業主婦を希望する若年層が増加していることや「婚活」の隆盛も追いかけていかなければならないと考えている。

女子力ブームを終えて、ある種の絶望感を抱いた反動からか、より現実的に生きる手段として最短距離を取って「婚活」を選択するという立場はあるかもしれない。あるいは自ら進んで客体化される生存戦略として「パパ活」に傾倒している層もいる。

不況や格差拡大が進んだ昨今の情勢では(女性間の格差も広がったはずである)、仕事の能力によってではなく結婚するための男性指向の自分磨きによって階層を上げる時代に逆戻りしているのではないだろうか。

しかし、単に時代が巻き戻ったという訳ではないだろう。女性はかつて獲た女子力という主体性を保ったまま、性的客体ではなく多様性を持った欲望する主体としての側面を携えて婚活に乗り出しているのではないだろうか。

いずれにせよ結婚というものは、生産性と結びついて国家の干渉を免れない領域である。またしても従来のジェンダー観や非対称な社会構造を再生産してしまう危険性を感じてしまうのだが。

 

【参考】

http://www.keiwa-c.ac.jp/ › 2017/09PDFウェブ検索結果「女子力」使用に見られるジェンダー役割の主体的再生産

http://www.joshigaku.net/ › _src › v...PDF「女子力」の社会学 - 女子学研究会

http://nagoya.repo.nii.ac.jp/ › ...PDF大学生が考える「女子力」とは?-男女間の認識の相違-