#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

見えない物を見ようとして望遠鏡を覗き込んだけど

もう本質の時代ではなくなった。本質の対義語は現象。大多数の関心は本来の姿形ではなく目に見える姿形だけになってしまった。インスタ映えが正義。もちろん、各々自分のいる場所が正義ということで間違いない。

資本主義は不可逆的に格差を広げる構造をしている。資本主義社会の発展により能力至上主義社会となり、その一見平等そうに見える評価自体が恣意的な階層再生産の仕組みの土壌に上に建設されたシステムであると気づくのに人は一体どれだけの犠牲を払ってきたのか。一体何百年先になれば富の再分配は実施されるのか。

今ここにすっかり出来てしまった分断も、開き切ってしまえばもう誰も陸続きだったなんて思わないだろう。そこには南米大陸とアフリカ大陸と大西洋があるだけだ。人種の分断、階層の分断、性差の分断、世代の分断…。

努力信仰は究極的には自分信仰でもあれば自分以外に着目することはないので排他的でもある。努力の評価はいずれ社会がしてくれると思い込んでいる。

努力を正義とした能力主義に傾倒してしまうのは身の回りの社会にもう救いがないからではないか。いや、もう田舎の共同体暮らしには里帰り出来ないのだ。資本主義による“豊かさ”の増幅機構は不可逆のラチェット構造であるために。競走の中で走り続けるには、もはや成長するために成長しなければならない。

やはりこれではどうしようもなく本質の時代ではない。幸せを追求する話がマーケティングを追求する話にすり変わっていたなんてことは日常茶飯事だし、価値基準を明確に見えるものにだけ規定してしまうのはそんな枠組みの教科書だけを使ってきたせいであって、社会の中で教えられた見える価値基準なんてものは本来的な姿形をぼやけさせてしまう。

多様性を尊重するなんて建前はある一定の枠組みが元々定められていて、それを拡張するような構造ではないのか。誰が何を尊重するのか。始めから個を個として捉えていれば多様性なんて概念からして存在しない。本来見えないものとして当たり前に存在するだけだから。

でももちろん、どんな社会であれ社会システムに組み込まれることに呪われて生まれてきた私たちには今更どうしようもない。どうしようもなく社会のルールに則った能力にしか拠り所がない私たちは自分の本質よりも自分がなす現象に囚われてしまう。競走の成功者は自分のなした現象を誇大表示し、落第者は自分の理想を見える形で提示する。それが能力に見合わないまやかしであっても何ら問題はない。見かけならばいくらでも誇張してよい。これは科学技術が私たちにもたらす一種の福祉であり、本質を覆い隠すのに一役買っている。そんな科学を幼少期から信仰してきた私たちの目に見えないものへの疑念は、目に見えるものにすがらないとどうしようもなく生きられないという形で裏返ってくる。目に見えるものだけを提示して、それ以外は排除することでしか現代社会に生きる者としての市民権を得られない。

社会に敷衍するあらゆる分断に疑いを持ったなら、その根底にある本質と現象の乖離に意識を向ける時ではないか。

私たちの中にすっかり抜け落ちてしまっているものは何か。