#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

夜景スポット

仕事の話とかいいからさ、好きなものの話だけしようや。これをはっきり言って友達は自然に消えていくしはっきり言わずに友達は友達でなくなっていく。外で公式を復唱して家でコミックLOのコピーを復唱して10年経ってた。周りは就職してそろそろ大きなプロジェクトを任されてマッチングアプリで出会った同じくらいの学歴の人と結婚して貯金を貯めて車を買ったらしい、という哀愁を電波に載せるほど友達もいないらしかった。

「ねえ、私これからどうなるの?」

江口寿史が描いた大森靖子のポスターに語りかけても何も返って来やしない。江口寿史の絵と目を合わせることはない。君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命のジャケットにしても。どこにも存在していない彼女はまぼろしで、夢の中にいるから。今にも本当の第三次世界大戦が起きそうな歪んだ現実なんかに夢をぶつ切りにされるせいでいつも夢はチュートリアルからやり直しになる。《極座標形式に改めよ》くらいマニュアル通りに決まりきっていて煩雑なのにいつもやり直しを食らう。思考力がなくなるまで反復したらいつの間にかテストには合格したことになっていて、夢は、現実は、ぶつ切りされる。

恋愛はいいから相方がほしいなんて言ってみても、友達すらもろくに作れない私を背負い込ませるのは面目ないとすぐに言ってないことにしてすかさず常温のアクエリアスを飲み干す。そんな毎日を消化しながらもなんとか生きてるだけを精一杯生きてるで上書き保存してる。

「あなたはそれをできますか?」

別れ際に言われた言葉だった。「できるように努力する」なんて死んでもクソつまらない嘘を言う前にブロックしてくれて命拾いした夜。上辺だけの嘘を並べたかったんじゃなくて、結果が決まっているのに求められる途中の計算式を述べなくちゃいけない状況に嫌気が差しただけ。抵抗も許されなかった分だけ虚しさはマシになった。そうして一つだった「できない」が一緒にいることも「できない」にもなって、つまり細胞分裂した。

大人たちには「お前には何もできない」って忠告されながら生きてきたけど、何かできると思いながらも何かできると正しく言える程ではなかったから、何もできないことにして、そんな忠告くらいはできると思いたい大人たちを満足させてきた。できないと声を上げれば上げるほど、大人たちは満足していった。

「あなたは誰ですか?」

「できない」

「あなたは何歳ですか?」

「できない」

「あなたはどこにいますか?」

「できない」

答えだけはいつも決まっていた。だからあの時も「できない」とだけ言えたらスマートだった。スマートというのは大人という意味で、自分を殺すことなんだけれど。殺せやしないから再生だってしないんだと思う。

つまり私が恋愛をしてはいけないのはスマートじゃないからで、大人じゃないからで、「できない」を認められないからなんだ。

つまり私が飯を食ってはいけないのはスマートじゃないからで、大人じゃないからで、「できない」を認められないからなんだ。

自分を殺せやしないくらい度胸もないからさ、望んだ誰かを殺してあげられるほどの愛もないってことなのさ。