#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

ご飯を食べるまでには何もないけれどえっちまでにはえっちまでの全てがあるという神話

アニメグッズをはしごすることだけが確かに存在する青春だった。若者のすべては電気街のビカビカに集約されている。最後の花火は同人誌コーナーの風呂に入らないオタクの体臭。盲目に何かを追い求めることなんて幻想でしかなかった。そこら中に落ちている希望のかけらは誰かが使い終わって捨てたもの。私は何を信じて何を壊せばいいのだろうか。本心で話せる友達だけが本質。塾帰り深夜にメイドカフェの前を通ると横柄な店長か誰かがメイドにキレていた。馬鹿のふりしてメイドカフェに行くことも一生できないなと思った。こんな感じで両手の10本ある指のうち2本だけで生活している。私もこんな風になりたかった。ギターと歌だけでやってる誰も知らないyoutubeを見ながら呟いた。時間を消費した対価を求めてしまうやるせなさからそれを努力と形容してみても、自分を封じ込めただけだったと思う。私は成長しない。変化するだけ。そう思って過ごしたかったのに、誰かから評価されることでしか自己を画定出来なかったし、そんな環境にしか居なかったから、勝手に誰かから見て成長させられてた。身長は全然伸びないのに物理的なイメージを重ねないで欲しい。生きることしかやってないつもりでも生きることさえ評価している。そんな文化に殺されるんだと思う。黙って搾取されるだけならどれだけ楽か。空っぽの私を私というだけで愛せるならどれだけ良かったか。器用に適応することだけ洗脳されて覚えさせられて、そんなおもんなさに一秒ごとに殺される。お前が理解出来なかった人生を見せてあげたかった。もっと盲目でキラキラしていた。本心を話しているときだけ私でいられる能力。こんな感じでいつも極端に抽象化している。最後が要らない。