#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

なんでもない その2

しかし、急に人生を正そうと思い立ったところでその方法も手がかりもわからない。自分一人で表情を取り繕っても限界はあるだろうから、やっぱり人間関係なんだと思うのだけれど、それが難しいからまさに今こんなところで書き殴っている。

正直、私には心から信頼している人が数人しかいない。その数人が私のことを信頼している保証もない。そうやって壁を作ること自体が間違いなのはわかっているけれど、信頼していない人と話していると、自分この人のこと信頼してないなーって思う瞬間が来る。信頼していない人と話しているとどこか斜め上から自分を見下ろしている自分がいて、逐一自分の声や顔や動き、頭の中までチェックしているような感覚に囚われる。そしてそれによって自分がとてつもなく恥ずかしくなって、自分が思うままの行動をどんどん抑制していって自分を曝け出せずに会話が終わってしまう。斜め上から見ているのは自分なんだけれど、これは判断基準が自分という意味で、本質的に自分の言動をチェックしているのは対面している相手だという意識がそうさせているんだと思う。誰かから言われた所作をいちいち気にして、抑制して、恥を知りながら生きてくるしかなかった。だからコンプレックスも滅茶苦茶ありそう。私も誰かに言っている事の方が遥かに多いという自覚すらあるし、だからといって正当化するのは全くフェアじゃない。加害にも被害にも過去のことには向き合えるかどうかしか余地は残されていないんだと思う。けれどもそうやって、罪の意識が益々過剰に膨らんでいって、益々言動も苦しくなってゆく。人を信頼するのはこんなに難しいことなんだっけ?反対に初対面の人だと過剰に信頼し過ぎる側面もあると思う。全く距離感が掴めない。現実でそれなりに上手くやっている自分と苦しい自分、上手くやっていけてる分(それは単に教育への投資が成功しているだけであって、教育されていない分野においては完全に手探りなのだ)内面が未熟な苦しい自分のケアは自分ですら出来ていない。

人間関係は鏡のようで、信頼されていないことと信頼していないことは表裏一体だ。信頼とは本来特殊なものではないはずなのに、いたずらにハードルを上げているのは自分の方だ。だから信頼することも信頼されることも同時にハードモードに突入してしまっている。専ら特殊な関係性にしか魅力的な信頼関係が築けないかのような錯覚をしてしまう。色んなシチュエーションや関係性をアニメや漫画の虚構世界から引きずり出そうというような暴挙。特殊な関係性に惹かれてしまうのは厄介なものだ。もちろん、パートナーや親友やビジネスの相方のような何かに特化した関係性というのも必要ではある。特別視され、偏愛されるような類の承認もあれば平等に人間として尊重される承認もあるが、これらは別々の空間に存在するものでもなくて、依怙贔屓と基本的な尊重の間のグラデーションの中に固有の関係性が配置されていると見たほうが健全なのではないかと思う。どちらか一方だけを偏執的に求めてしまうのは分が悪いというかバランスが悪いのではと思う。特殊な関係性を出会う人全てに平等に配分できるだけの能力もキャパシティもない。

おそらく、自分の中でまだセカイ系は終わっていなくて、ずっとセカイ系特有のループに閉じ込められているような状態だ。人間関係は私とあなた、それでセカイのすべてを賄うものとして成立しているのがセカイ系だ。他の何も必要ではないし、オリジナルなこの関係性の成否でイチかゼロの極限的な幸せか不幸せかが決定される。いやしかし、当然現実世界はこんな時代錯誤な妄想ではない。世界は雑多な関係性で溢れ、その中で自分という存在がふわふわと漂っているだけなのだ。一刻も早く自分が些末な存在だと認めないといけないのだ。その事実を認められず、自分がセカイのヒーローかのように思い込んで、それこそがまさに異セカイ転生しているとはつゆ知らず、皮肉なものである。自分が思うような一通りの関係性に拘泥せずに、雑多な関係性の中で自分や関係性を育んでいくものなんだと思う。裾野を広げることで関係性の原石は発見されるのではないだろうか。

人の温かさを知っているからこその寂しさではあるけれど、三度目の春が来たけれど、マッチングアプリをしても蕁麻疹や偏頭痛の先にありえないスピードですり抜けていったけれども、一応現在、惰性でも何でも、生きている。詰んでるか?

コロナ禍にしても東京というアウェーの場所にしても、マッチングアプリというプラットフォームにしても、全て問題はそこじゃなかった気がする。バイトも始めて、裾野が広がってはいるし、人と関わるタイミングも機会も与えられているんだと思う。問題はもっと、内面にあるのでは?多分それを克服しないことには今後もあらゆるものを見過ごして生きていくんだと思う。

次回からは、どうしてこうなったか考察するために、過去を洗いざらい語り尽くしていつでも成仏できるような態勢を整えたいという所存。それいつも通りやないか。

なんでもない その1

恐ろしく何も起こらない日々。人と会うことが社会復帰の第一歩なんだろうけれど、とても人と会えるような状態じゃないのでひたすら他人任せでかまってもらえるのを待機するだけの時間。

表情は人生を作る。人生が時間の流れの中で勝手に表情を与えてくれるということはなくて、何を見て何を感じるか、それによってどのような表情をしていくか集合で人生は彩りを持つようになるんだろう。一人で引き籠もって過ごしていてもせいぜいYouTubeで笑うくらいのもので、映画館で涙を流すこともしたけれどほとんど表情もなく何故泣いているのかもわからないような状態だった。よく言われるような胸がぎゅっとなる感覚だとか、空っぽになる感覚だとか、正直自分には未だによくわかっていない。正直、悲しい事件や悲しい話を聞いても形式的に耳を傾けて話を聞くことはできてもイマイチ共感というものが出来ないでいる。なんなら、人間の持つ色んな複雑な感情が相応しい場面であるかどうかに関わらず、全て一緒くたに笑いとして発露しそうになることは頻繁におこる。悲しい話や辛い話を聞いても理解はするしなんだか悲しいような気持ちにもなるのだけれど、笑いそうになってしまうことが一度や二度ではない。怒られているときもヘラヘラしてさらに相手の感情を逆撫ですることもあった。笑いというのは滑稽さや違和感を醸し出す対象にある程度の親密さと自分事ではないという排斥の混じった心理状態の発現だと本に書いてあった。そうなんだろうか?だとしたらこんな態度をとってしまうということは話し相手の内容も聞く耳半分に他人事として処理しているような冷たい人間だということになるのだろうか。認めたくない事実だ。

昔から自分の感情、悲しいとか寂しいとか憂鬱だとか怒りだとかはすごく自分は希薄だし発露もいきなり起こることもなく冷静に処理しているもよだと自覚していた。そういった感情が発露してこないので、自分の幸せにしろ不幸にしろ感情の原因そのものが他人との比較によって過小評価されてきている節はある。さらに自分は経済的には恵まれているし、家庭内の不和はあれど暴力的な家庭だったわけでもなく、現に何不自由ない生活を送れている。特に重篤な病気にかかっているというわけでもない。そして自分が迷惑ばかりかけていても相手をしてくれる友達もいる。そんな自分に不幸自慢する資格はないし、他にもっと限界ギリギリで生きている人もいるのに自分の甘えは一体何なのか、と本当に思う。何が満ち足りないというのか。

しかし、寂しいというのも紛れもない事実である。表情にも出なければ毎日枕を濡らすということもなく、友達と会ったら一時的に忘れるようなものなので、その程度というならその程度だという疑念は残ったままだけれど確かに寂しいという感情で自分の中で大筋合意が取れている。さらに研究も人間関係も上手く行ってはいないところも確かにある。早く大学を卒業して生計を自分のものにしたいし(これは昨今、いよいよコンプレックスである。自分の選択の結果だけれど…)

思うに、放置してきた問題が山積みなのでは?だからいつまでも満たされるという感覚にはならないし、それを自覚して寂しくなってゆくんだと思う。周りを見ればそりゃ辛いことも楽しいこともあるように見えるけれど、自分にとっては一層自分よりも楽しそうに過ごしているように錯視してしまう。何故こうも自分だけがこんな感じで限界で、吐瀉物のような物をだらだら書き続けていなければならないのか。ホコリのように溜まった自己暗示を取り去る作業を要するのに、ホコリを取り去る動作をしながら舞ったホコリでむせ返って苦しんでいるような状態なんだと思う。もういよいよ茶番は終わりにして、しがらみから抜け出して自由になりたいと思う。毎日思う。毎日思うが無表情のまま何不自由ない日常を謳歌している自分に、周りはおろか自分こそがその切実さに気付いていないんだとも思う。人生を正そう。表情を作ろう。

よりニュートラルな唐揚げ

一人称が定まらない問題。

日常会話で一人称がブレまくる。そもそも日本語は一人称が多過ぎる。

例えば西洋的な考え方では人間は神によって作られたものであるから立場によって変化することのない普遍的な一人称が与えられ、八百万の世界観ではそれぞれの神がひしめき合うなかで人称が相対する関係によって変化するから、というのは今思いついたものだけれど、日本語のコミュニケーションでは対話する相手との相対的な立場に依存して一人称があるというのは確かだろう。一人称というのは敬語の問題であったりジェンダーの問題だったりと関連している。私たち日本人は何かと敬語を使おうとするし、それで敬意があろうとなかろうと敬語を使うというのは、とりあえず波風を立てない方法であるとの共通認識があるし、同調圧力でもある。人によっては日常会話のかなりの部分を敬語の構成にあてがっているだろうし、敬語は私達の言語に基づく思考体系と切り離せないものでかつ支配的なものだろう。自分を語るときや相手を意識するときもジェンダーの空間から席を外すことは出来ない。

手元に用意された一人称が増えれば増えるほどその選択には意味を持たせなくてはならないという見えざる圧力のようなものが働くこともある。歩き方を意識して歩き方がぎこちなくなるように一人称を意識して一人称ひいては自分というものについての意識すらぎこちなくなる。

例えば漫画やアニメで用いられる「お嬢様言葉」だとか「博士っぽい喋り方」にも一人称の問題は付帯してくるものである。これらは現実世界では使う人などほとんどいないにも関わらず、漫画やアニメの世界では記号化されて共通認識に刷り込まれてゆく。キャラクターごとに使われる語感や語尾に一人称が修飾していることはよくある。しかし、漫画やアニメのキャラクターが一人称をブレさせることはほとんどない。もしブレが起きるならば読書や視聴者は混乱するだろう。何に混乱するのかといえば、それは単に語感のブレではなく、キャラクターの人格のブレに対してである。漫画やアニメのキャラクターには基本的な像として一貫性が求められているのであって、そこが魅力なのである。しかし、現実世界に居住する私たちはそのような一貫した存在でないことは自明のことといえる。

現実世界でも一人称として「私」、「僕」、「俺」など使いまわしているが、例えば敬語を使う状況で使われる一人称はそれらのうちどういったものが選択されるだろうか。漫画やアニメの影響下にある「俺」、社会人たる「私」…そしてもちろんジェンダーの問題とも不可分である。「ボクっ娘」などという差異化された言葉が示すように明らかである。我々日本人はジェンダーや立ち位置を示さないままに一人称から何かを語りはじめることすらできないのである。

このブログにおいて執拗に「私」を押し通しているが、それは文章だけの身体を伴わない媒体を生かした脱社会的地位の試みであり脱ジェンダーの試みの第一歩でもある。比較的ジェンダー的にニュートラルかつ一貫した用法が良いのではないかという明確な意識の下にこの一人称を使っている。というかそもそも名乗ることすらしていない。名乗ることをしない限り失われない一般性はあると思っている。とにかく「私」以上の詳細は読者に委ねているという設定を想定しているし、何者でもない何かが文章だけで何かになるという意味を体現したいというコンセプトも存在する。この表現方法の限りでは、突然「私」が何者かに取って代わられている可能性も捨てきれないし、突然複数形で「私達」と言い出して人格が分裂したり、誰かが招聘されたと捉えられるような事態になったとしても全て読者に委ねられている方が面白いと思う。人ではない物や実体すらない「私」を自称するシステムが文章を書いているという設定を勝手にしてもらっても良い。そのような余地を残していたい。

SNSのアカウントやアバターが現実世界の身体と離れたとき、一人称による主体の選択は最も簡単な自己の表現方法と言っても良い。一人称に性差があるからこそ身体を離れた表現ができるとも言える。西洋語ではせいぜい他人から「he/she」のような記号を付与されるだけだと考えると、積極的な一人称の駆使は日本語での自己表現の特権とも言えるのかもしれない。ジェンダーだけでもなく、来歴や身体に依存しないインターネットの中だからこそ、方言の使用や特徴的な語尾の使用によるキャラ付けも可能となるでごわす。

一方で、現実世界の私はかなり一人称がブレている。同じ話し相手ですらコロコロと一人称が変化していく。自己表現として多面性を表現したいときもないではないが、それにしても選択肢多さから来るの判断のぎこちなさという側面の方が強いと思う 。一人称が定まらない問題について考えてみよう。

尊敬語や謙譲語となると明確に“自分”や“相手”の立場を上下させるものであるから、一人称や二人称にその都度変化があるのは自明なのだが、問題は丁寧語という殆ど形式だけの波風立てないムーブだ。しかも丁寧語は頻出する。「俺は〜です。」「僕は〜です。」「私は〜です。」…もちろん、書き言葉と話し言葉でも異なるのだが。いずれにしろ「僕」や「俺」や「私」には多かれ少なかれそれぞれの意味が内包されているのであって、それを意識してか意識しないでか使い分けている結果が一人称のブレを引き起こしているのだろう。先程は「私」をニュートラルな表現だと捉えているということを言ったが、これも「私」という言葉の意味に対する勝手なイメージに過ぎない。空気階段のコント『クローゼット』では浮気男が一人称が「俺っち」になるという呪いをかけられるが、“浮気男”と「俺っち」の共通認識と照らし合わせたときのミスマッチが滑稽さを引き出している。

例えばアニメに影響されているとしよう。定型句として浸透しているものだと、「オラ」“孫悟空”だったり「僕」“ドラえもん”だったりする。「オラ」には“孫悟空”のようなキャラクター性が、「僕」には“ドラえもん”のキャラクター性が一人称に対する属性として加えられている。一人称というものが意味と記号の複合たる言語の範疇である以上は、影響元がアニメであれ友達であれ、「僕」を使う人間性や「わい」を使う人間性が念頭に置かれている。その都度相手や自分の人間性を確認し、その関係性の中で一人称を使い分けているということはあると思う。おそらく話しながらでも一人称が変化していくというのは、相手の顔色を伺いながらや関係性を確認しながらでないと話を進められないということの現れである。抑圧的でないように、一定のパーソナルスペースを保ちながら、会話している空間の雰囲気に合致するように、文脈を破壊しないように、一人称からコミュニケーションを構築しているのだ。

しかしこうも言える。僕は一枚岩ではありませんことよ。

蒸散

階段一歩だけ 踏み外したら

元の場所より 遥かに沈んだ

4つ前の季節が 微かによぎって

意識が動きの邪魔をした

何が私を  誰が私を

動かしているの?

本能を探すから おかしくなる

笑ってもいいけれど

私と沈む覚悟でいてね

だってここは 私の物語

 

階段一歩だけ 踏み込んだら

元の場所より 遥かに沈んだ

2つ目の季節が 微かによぎって

動きが意識の邪魔をした

私が何を 私が誰を

動かしているの?

本能を探すから おかしくなる

泣いてもいいけれど

私と沈む覚悟でいてね

だってここは 私の物語

 

ノイズの中を彷徨うと

ボタンの掛け違いは

許されなかった

ほつれた糸を 辿っていくと

馴染みの部屋で 迷子になった

ドロドロを ミキサーにかけて

真っ黒に染めた

 

仮想貴方の死線

不味いビタミン剤のグミで自己肯定感がオーバードーズした。3月16日、世界が終わった。暗闇の中。今の私はどこにもいないから人に顔向けできない。承認を得るのはまだ早い。こんな人生でいるつもりじゃなかったな。夢だけ見てたら息できなくなってた。かろうじて生きてるふりしてるのは過去の私。自分の痛みがわからないからあなたの痛みもわからない。私を傷つけることさえも出来ない人のことなんかどうでもいいのに。矛盾してるけどおかしくないよ。どれだけ傷付けられてもあなただけが世界で、傷付けられることが生きていることに他ならないんだと思う。あなたを傷つけることで傷つくのが怖くて踏み出せないから関係性もこれでお終い行き止まり。観客はあなただけ。もう私はわたしの役割を演じていられない。台詞が出てこない。どうしてわかりやすいものだけで成り立っていると錯覚したのかな。わかりたいわかられたいだけどわかろうとはしていないよね。道筋を立てられずに時間だけが浪費される。セカイにはあなたしかいないから私はそのまま何があっても生きてゆくのならありのままを受け入れていかなければならない。どうしてそこまでされる筋合いはあるのだろうかと問うけれど、理由なんてなくて、それだけがセカイのルール。狭くなってゆくセカイ。なんだか嫌だからという理由で人と会わずに寝ていた。人への執着がなくなって行き場もなく今日もゆっくりお昼寝、気持ちいい気持ち悪い。もっと狭いセカイ。幸福イク幸福イク。只今地球は静かに寒くて、ネオンの街とウザい客引きの喧騒のお陰で私がなかったみたいになるけれど。毒毒イク。気持ちよくなれない外が騒がしい窓の内側。耳障り、信号待ちの度に仮想あなたの視線が私を殺すんじゃないかって震えてる。かんがえるノート。NOと言えない。寂しさはグミで満たした。夢の中でしかあなたには会えないから現実は捨てた。セカイは歪に作り変えられる神様ごっこ。指切っても痛くないけれど終末だから表情を消して自然任せでカタストロフィを待ち侘びている。なんて文脈に沿って承認されたいだけ。ほんとは空っぽになってた心も満たされないで満たされている。沈んだ船に乗ろう。呪う。いつもほんとは書きたいことも言いたいことも何もないのに明日の自分を思い出してもらうために記している。誰も憶えていない私のこと。私すら憶えていない私のこと。出会うべきタイミングで出会った漫画だけれどあまりの完成度に落ち込んでしまった。人のこと見下すことでしか対話出来ないのかな。勝ち取りたい承認は私のこと大切にできない私がせめて何かに縋って私のために誰かが私に与えてくれる無償の愛であって、私が思う文脈でなければ意味はないのであって、私が気持ちよくなれれば誰だって良いし誰を搾取しても良い。向き合っているつもりなのは目の前の誰かのことではなくて一途なイデオロギーそのものだけ。美容室では嘘を名乗りました。攻めてくる。だけど、非対称、一方通行、二人でオナニー。

別離

私を人間だと思わないで

特別じゃないのに認められたら

これまでの私の努力はどこにゆくのですか

仕方なくしてきたことを無下にされるのが怖いのでしょう

あなたは私の思う通りに私を思わなければればなりません

私はあなたを私の思う通りに生み出すだけです

観測者は私でなければなりません

あなたが落とした記憶の欠片を拾い集めて私にするだけ

少しは輝いて見えることでしょう

そうでなければくすんでいるのはあなたの瞳

無数の記憶

その中のどこに入れば許されるのでしょう

肩を覗いて虹を見る

夕方午前二時の紫ががった緑の春の空

散っている舞っている育っている

本物じゃなかった私

死の媒体

眩しいだけは嫌になった自己表現

雲の上から世界が漆黒

好きなものと嫌いなものだけで作られた私

見せられない風情

心の奥が静かに叫んでる

私はいつ私から解放されるのでしょうか

文章と実物どっちが私?

瞬間の快楽に負ける私を斜め上から見てる誰かが私

私のためだけに私の嘘は生きている

今日も私は私の背景になる