#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

なんでもない その1

恐ろしく何も起こらない日々。人と会うことが社会復帰の第一歩なんだろうけれど、とても人と会えるような状態じゃないのでひたすら他人任せでかまってもらえるのを待機するだけの時間。

表情は人生を作る。人生が時間の流れの中で勝手に表情を与えてくれるということはなくて、何を見て何を感じるか、それによってどのような表情をしていくか集合で人生は彩りを持つようになるんだろう。一人で引き籠もって過ごしていてもせいぜいYouTubeで笑うくらいのもので、映画館で涙を流すこともしたけれどほとんど表情もなく何故泣いているのかもわからないような状態だった。よく言われるような胸がぎゅっとなる感覚だとか、空っぽになる感覚だとか、正直自分には未だによくわかっていない。正直、悲しい事件や悲しい話を聞いても形式的に耳を傾けて話を聞くことはできてもイマイチ共感というものが出来ないでいる。なんなら、人間の持つ色んな複雑な感情が相応しい場面であるかどうかに関わらず、全て一緒くたに笑いとして発露しそうになることは頻繁におこる。悲しい話や辛い話を聞いても理解はするしなんだか悲しいような気持ちにもなるのだけれど、笑いそうになってしまうことが一度や二度ではない。怒られているときもヘラヘラしてさらに相手の感情を逆撫ですることもあった。笑いというのは滑稽さや違和感を醸し出す対象にある程度の親密さと自分事ではないという排斥の混じった心理状態の発現だと本に書いてあった。そうなんだろうか?だとしたらこんな態度をとってしまうということは話し相手の内容も聞く耳半分に他人事として処理しているような冷たい人間だということになるのだろうか。認めたくない事実だ。

昔から自分の感情、悲しいとか寂しいとか憂鬱だとか怒りだとかはすごく自分は希薄だし発露もいきなり起こることもなく冷静に処理しているもよだと自覚していた。そういった感情が発露してこないので、自分の幸せにしろ不幸にしろ感情の原因そのものが他人との比較によって過小評価されてきている節はある。さらに自分は経済的には恵まれているし、家庭内の不和はあれど暴力的な家庭だったわけでもなく、現に何不自由ない生活を送れている。特に重篤な病気にかかっているというわけでもない。そして自分が迷惑ばかりかけていても相手をしてくれる友達もいる。そんな自分に不幸自慢する資格はないし、他にもっと限界ギリギリで生きている人もいるのに自分の甘えは一体何なのか、と本当に思う。何が満ち足りないというのか。

しかし、寂しいというのも紛れもない事実である。表情にも出なければ毎日枕を濡らすということもなく、友達と会ったら一時的に忘れるようなものなので、その程度というならその程度だという疑念は残ったままだけれど確かに寂しいという感情で自分の中で大筋合意が取れている。さらに研究も人間関係も上手く行ってはいないところも確かにある。早く大学を卒業して生計を自分のものにしたいし(これは昨今、いよいよコンプレックスである。自分の選択の結果だけれど…)

思うに、放置してきた問題が山積みなのでは?だからいつまでも満たされるという感覚にはならないし、それを自覚して寂しくなってゆくんだと思う。周りを見ればそりゃ辛いことも楽しいこともあるように見えるけれど、自分にとっては一層自分よりも楽しそうに過ごしているように錯視してしまう。何故こうも自分だけがこんな感じで限界で、吐瀉物のような物をだらだら書き続けていなければならないのか。ホコリのように溜まった自己暗示を取り去る作業を要するのに、ホコリを取り去る動作をしながら舞ったホコリでむせ返って苦しんでいるような状態なんだと思う。もういよいよ茶番は終わりにして、しがらみから抜け出して自由になりたいと思う。毎日思う。毎日思うが無表情のまま何不自由ない日常を謳歌している自分に、周りはおろか自分こそがその切実さに気付いていないんだとも思う。人生を正そう。表情を作ろう。