#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

毒宇宙のさなかに

寒空の中遅延した電車を降りて一駅歩く、それだけの物語の中で私の生は完結する。孤独とは孤独である限り外部に語り得ない閉塞の中に存在する。それが孤独であると発話し他者との認識の共有領域を形成したその時点で孤独というのは解消される。誰かに言葉を伝えるとき、とりわけそれが、好意や喜びだけではなく敵意や憎悪や侮蔑といった範疇も含む、愛と呼べるものなら、必ずその言葉は他者という鏡像を媒介して自己に伝えられるものである。さらに反転させれば、自己もまた他者にとっての他者性の媒介を担う鏡像でもある。しかし愛が対称的な形、質量を保有しているとする根拠はどこにもないのである。だからこそ私は私のために、この場で私に愛とは何かを言い聞かせるのだ。繰り返し何度でも。いつも私が伝えたい愛は私が欲しい愛の姿をしている。私は私が欲しかった言葉をあなたを通して自分に問いかける。欲望に誰か応答してくれ。そして、愛は一意に決定される定常の解ではないし、独立した存在でもない。愛とは自己と他者の境界線上のみに存在し、その境界線が絶えず引き直される限りに於いて実体を持ち、自己の一部分と他者の一部分の交換に際して生じる摩擦熱である。辛かったことなんて全部忘れていないから、辛い出来事の分だけ愛を、誰かにとびきりの愛を与えられたらどれだけ辛かったことでも私の身体にいとおしくまとわりついてくれるだろう。だから例えそれが純粋に私に向けられたものだとしても、愛を諦めない理由になる。辛かった分だけ愛にして返したいと思う。それがどんな狂気であっても。友達も恋人も家族も見知らぬ人も無機物さえも、全部言葉の中にある仮のものだから、それらの全ての関係性が言葉の外側に解放されたとき、私は心から涙を流すことでしょう。やがて愛だと思えるような言葉を望んでいる。愛をあなたに。