#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

ピクミン

かすり傷で死んじゃう系なぼくらこと「線細」は、あるいは風が吹けば飛んでいきそうで、ぐしゃっと潰れて消えてしまいそうな身体性を有する存在だ。流れに身を任せるままに、運命には脆弱で、何かを超克する契機など必要としない。しかしそれでいて「線細」は健気に生きてゆく。運命に蹂躪されながらも、どこか不可思議な力によって守られている存在でもある。そのような、決して能動的ではないが潜在的には魔力を持つ存在。

また、運命に抗うという文脈を辿らないということは積極的な他者への介入を持たないということでもある。「線細」が本来的に持つ魔力は“呪い”のような類ではなく、“祈り”のような類のものなのであり、ほんのささやかだが、強力な魔術なのである。

魔術というものが特定のモチーフやアイテムを使用していたり、エネルギーを消費したり、交換を経て発現されるものならば、この祈りというささやかな魔術は何を供物として提供し、代わりに何を引き出すのだろうか。漠然とした概念でこの祈りの形態を呪いと呼ばれるものから切り離すならば、祈りは愛を犠牲にする魔術である。そして「線細」の祈りによって代わりに引き出されるものはほとんど不可視で解釈不可能な偶然性の帰結である。

祈りは愛を無償で提供し、ささやかすぎてほとんど目には見えない偶然を導き出すのである。この祈りの形は見返りを求めない(認識出来ない)無償の愛であるとも言える。見返りを求めるような愛はすなわち呪いの提供物として消費されるようなものになるだろう。

文化的に形造られる愛や欲望の権化となった愛は、この無償の愛という最も根源的な要素にとってニ次的な産物である。この根源的な愛こそが祈りに必要な魔力としての愛なのである。そして根源的であるからこそ自己統一的な特権性を保有する。「線細」にとって、自己完結型の特権的固有性を有する愛の無慈悲な犠牲のみで十分な魔術足り得るのである。無償の愛の犠牲は魔術の交換希求的性格とは相反するが、交換希求的性格が前景化してくると、具体的で必然的で建設的な帰結を要求するのだが、無償の愛の犠牲に耐えかねた自我は度々表面化される。そしてもしその建設現場が破壊的な様相を呈して来ると今度は愛の犠牲を取り返す交換条件として自分自身を犠牲にすることとなる。しかし実は見返りのないものだとしても、無職の愛の特権的固有性が担保されている限りにおいてはその祈りの中で自己を消失させる必要はないのである。なぜなら犠牲となる愛が純粋な自分自身の依代だからである。