#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

ボルボックス

水になった妖怪と意味の錯誤とゴムボート

一人夜明けに星に向って明日を殺して夢を見る

渚が石のように嘯けば翼になって

春の黄昏君に恋して地獄を諦めたそんな絵の具の色々は

細い体を滲ませて暗い夜道と君と君

本能をこさえて川を下れば楊枝の先のツキの訪れ

凛と立って腰に手を回して君を想えば

練習なしで1ミリずれた完全無欠な2択問題

君と君と君と君のろくろくろくろく

高いルーンのさめざめ夜逃げ

蝋と映画を二度まで食べて

蔵の瞳を外に削りてその字記す

アイラインをメラメラと光らせて胡桃を割った君の外側

そしてまた冬が来たりて月は南の彼方へ沈む

水面を通して言うものすべて笑うハンカチーフ

時を殺めて三鼎

万感落としてラピスラズリに捧ぐうた

 

私のつまらない人生をつまらないように流してつまらないままつまらなくするつまらない物事のすべて

私はいつ分岐すればよかったのだろうか。文化資本という言葉を思い出す度に鈍痛がする。
例えば文化人類学、哲学や美術でも良かったのに、別に挫折もしなかった理系の末路がここにある。しかし一体いつ、これらに分岐できたというのだろう。今の私は可能性を潰すことを恐れながら過去を忘れようとずるずると引きずってだらしなく生きることしかできていない。全くだ。可能性という幻影だけを大事に抱えているから何も選べないでいる。それを行為や実践と称して。

特別な不幸はないけれど、幸福なことも一つもない、というどこにでもある話。親や周りの環境に感謝はできるけれど、感謝で他の全てを覆い隠したくはないという話。
中学受験するには少し遅いくらいの5年生で塾に通うことになった。それまで特別教育に熱心な親であったわけでもないけれど、地元の中学に入れたくないのだろうということくらいは理解していた。私は器械体操がしたかったので、器械体操で有名な中学校を目指すよう説得された。私は地元の中学校で構わないとも思ったが器械体操ができる環境を言われて反対するほどでもなかったしなんとなく真面目に塾に通っていた。真面目に通っていたので成績はどんどん伸びていった。特に算数はコツを掴むとすぐにトップクラスの成績になった。6年生になるとやがて塾も忙しくなり器械体操のスクールは辞めて塾に専念していった。ひとつ下の妹は地元の公立中学に行くらしかった。成績が伸びれば勉強もそれは楽しいもので、器械体操のことなんて忘れて(忘れさせられて?)志望校はいつの間にか有名な進学校に変わっていた。中学受験を経験する小学生のどれくらいが主体的な意志を持って中学受験を選択し、志望校を選べるのだろうか。中高一貫校では運動部に入った。小学生の頃から野球でもサッカーでも「自分の」好きなことはやらせてもらえたけれど、それがどれだけ「親の」好きなこと(親が想定する子供(男の子)が好きなこと)の範疇を逸脱しないものであったから可能であったのかはわからない。その中高一貫校はいわゆる5段階の成績評価ではなく、テストの点数がそのまま成績表に記載された。ほとんど勉強と部活の日々だった。高校に入ってからはアニメにはまっていたが、男子校文化でのコミュニケーションのための共通言語の学習に過ぎない。ある意味で親から与えられた文化資本の乏しい者たちが手っ取り早く取得できる共通言語としてのサンクチュアリのようだった。それが親や年長の兄弟などから与えられた者たちもいたのだが、そういった者たちとは明らかな断絶を感じていた。クレオールと土着の言語くらい奥行きが全く違う。そんなことはともかく、たまたま受験「勉強」に成功して進学校に入った人間と進学校に入ることがそもそも義務付けられていた人間はすでに違うところにいるのだ。その混じり合いこそが私立の学校のメリットでもあるのだろうけれど。そんな違う人達を模倣して塾にも通わせてもらっていたから、ますます勉強と部活と残りの時間でアニメを見る(消化するといった方が正しいのかもしれない)だけで全ての時間が失われていた。思えば、消費しなくて済んでいた人達にとってはもっと面白いものを探す時間や自分の将来について考える時間なんてものもあったのかもしれない。幸か不幸か算数が出来たまま数学が出来て、挫折したり悩んだりせずに済んで、周りと同化することが身体化されていたから、それなりに数学や物理ができるというだけで周りと同じレベルの国立大学の理系の学科を志望した。一浪して大学に入って、数学は人よりは出来るけれど楽しくはなくなった。工学部の数学は所詮道具にしかならない数学だから自分には楽しくないんだと思った。才能がないなんて決めつけて、せめて理学部に入ろうと思わなかった自分に絶望した。大学に入ってからは趣味の自転車が楽しかった。もう楽しくない勉強は後回しにした。2回留年した。自転車で日本中を旅行するうちに民俗学文化人類学の面白さに気付いてしまった。しかしこれまで理系科目に注いだ時間や努力を少しでも失うのが怖くて学科を移るほどの勇気もなかった。そのままつまらない工学を学んで、学んだことの範囲で出来そうなことを妄想して大学を卒業した。理系だからという理由だけで大学院に行くことは決めていた。卒業論文を書いた研究室は教授が嫌いになって大学院進学を辞退した。1年大学から籍は外すことになるが別の大学院を受験した。学んだことの範疇で出来そうなことを妄想して研究室を選んだ。新型コロナウィルスが流行した。研究室にも大学にも行かずに家で研究する方が楽だった。反面、引っ越してきた知らない土地で友達もいるわけもなく、来る連絡は教授からの絶え間ない進捗確認だけで、全く楽しくもなんともないゼミの準備で時間を浪費してかつてないほど鬱になった。初めて心療内科に行った。自殺の方法ばかり考えた。反動で図書館から人文系の本を読み漁った。大学院は辞めても辞めなくてももうろくなことはないから辞めるエネルギーを温存して心を殺すだけ殺してギリキリ読めるクオリティにだけして修士論文を書き上げた。新型コロナウィルス流行下で、リモートでシミュレーションを回して、賃金がもらえる人と貰えない人の差は何だったのだろうか。社会に役に立つことを文章で強調すればするほど、色々すり減らしているだけの自分に意味を見いだせなくなった。大学院まで行って、行ったから、そのままの分野で就職出来ないと思った。もう就職自体どうでも良くなった。修士論文から解放されたらしばらく休もうと思った。それで貯金が尽きようが餓死しようが考えついた自殺の方法よりもマシだと思えた。私はいつ私の人生を変えられたのだろうか。

算数の出来が悪かったら?まともに勉強をしていなかったら?部活をしていなかったら?能動的に文化を吸収できるバイタリティがあれば?才能を過信していれば?してきたことを捨てる決断が出来ていれば?いつ分岐は発生していた?いつ分岐は消えた?

だから今は、可能性を消すことがもっと怖い。おわり。

グロテスク

どうして父親は子育てに無関心だったのだろう。どうして私は「男の子」として育てられて中高私立で国立大学に行けて妹は「女の子」として育てられて中学は公立で短大だったのだろう。

他の家族の経済的自立の可能性を抹消する妄想によってしか家父長制共同体を維持できない父親のファルス。

自らの欲望を切り捨てるように強制されたジェンダー規範に絡め取られ、自らの余剰の欲望全てを子に投影することでしかアイデンティティを担保できない母親。

特別なことなどない。至って普通の中流家庭。

もしも想像が経験を越えないのならば、家族という形式を再生産することでしかあなたたちは自らを救えないのでしょうか。いや、あなたたちに自らを救える外側など存在しないのでしょう。

 

 

毒は廻る

またやらかしてしまった。ヒリヒリと痛みを感じながら、私に君に出来ることなんてないと思いながら勝手に苦しくなってる。いつにも増して振幅を大きくする心臓が毒を体中に送り出す装置にしか思えなくなってる。

終わりがなくて、エラーだけが増えていくみたい。いつかの光景に似ている。些細なミスで全てが終わる、由余のないゲームをしている。

覚悟を決めていないと人とは接することは出来ないゲーム。違うんです、他の人とは。

交換による自他形成と定義された愛の範疇に無償の愛なんて存在しないから、行き場を失って自己循環するこの感情は、溜まった雨水みたいに濁っていって、私の身体に毒を廻していく。

それでも人を呪いたくはないから、少しでも呪いについて学んでる。

人と接して自分を見つめて、自滅して嫌われもせずに忘れられていく。これを繰り返す。死ぬまで繰り返す。それで何かを学んだ気になって自分を傷つけて、自分を傷つけて

傷つけて

何になるんだろうね。

化け物なんだろうね。

人には優しくあろうと思った。優しすぎて狂った人になろうと思った。

でも優しさなんてわからなかったから、自分を消すことだけに専念して、誰かの心の鏡に自分は映らなくなって、自分がわからなくなって、わからない自分を自分の中でも消して、

優しさなんて自分を守るための嘘だったのに。

優しさなんて自分を傷つけるための嘘だったのに。

ずっとは続かない関係ってわかってたから、執着していたのかな。前髪1ミリずれただけって思っていられたら。

今も毒は廻って、絶望に嘘みたいって思いながら仕方なく消えていくんだろうな。

明日なんて来ないほうが楽なのにって思ってしまうから、きっと明日は来ないのだと思う。

ありがとうしか言われないなんてつまらない人生ね。

 

思考はどこからやって来るのだろうか

できる限り部屋を暗くして、音も立てずに、目を閉じて、背筋を伸ばして、ゆっくりと呼吸していく。今までの全てを総動員して光より速いスピードで考え込む。私の心、大切な人のこと、一度きりの誰かのこと、遠い昔のこと。納得の行くまで集中して考え込む。何を考えていたのか、すっかりわからなくなるまで思考を遠くへやる。すると、もはや私の思考は私のものではなくなるみたいだ。連続のうちに変化した私は、私の思考は、いつの間にかトランスを超えて別の思考へと接続されてゆく。神のお告げがあるかのように。