#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

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生ぬるくゆるやかな風がしばらく切っていない髪を泳がせる。もう6駅分の距離を歩いただろうか。いや、その2倍は歩いただろう。おにぎり1つとサイゼリヤのドリアだけでこなしてしまう低燃費に我ながら感嘆してしまう。「君は自分が幼いことをもっと自覚した方がいい」頭の中でこだまするそのやや強い口調をいつまでも振幅させていたかった。そして衝動に任せて表現する。いつも私の行動は表現だった。例え誰にも見られていなくとも。世界に対して、信仰する神に対して、かつて私と時間を過ごした誰かに対して。信仰する見えない概念全てが神になる訳ではなかった。実際に私と時間をともにしてきた神様たちは私の作り出した概念ではなかった。むしろそれを破壊した。偶然机の上にあったその小説は私の全てが書かれていた。端から見ればそれは思い込みに過ぎないなんて言われても、そうとしか思えなかった。何故なら君が渡してくれたものだったから。SNSやあらゆるデータに細工しない代わりにいつも感情を置き忘れてしまうのだと気付いた。感情を一から構築するのがどれだけ時間のかかる骨の折れる、いや偶然に頼るしかない方法か知っていた。右手に握ったスマートフォンは淡く儚い希望だった。昨日からろくに食事もしていないから握力がなくなっているのを感じた。それでも一縷の望みのような殆ど絶望としか言い得ないそれをなんとか離さないでいた。私が君を思い出すその瞬間だけでもどこかで君が笑っていられたらそれで十分だと思えた。もっと楽に、君が君であるだけでいいのかもしれない。そう考えながら余計な事は何もせずに帰ることにした。どこまでが往路でどこからが復路だったのだろうか。ここには私以外の誰もいないのに、私だけが決めて良いものではない気が少しした。あと何秒あるかわからない残りの人生でこの日を私はあとどれくらいの時間思い出すことができるだろうか。君にも同じだけ思い出してほしいと思った。そんなこと叶わないからこそそう思った。残りの人生では私だけが私を探していくのだろうか。探される私や誰かのことを探り当てる私は存在するのだろうか。きっと人生というものはそれほど長くはないのだろうと信じている。今私は何か考えがあるわけでもなく、普通の日常を疲労感と倦怠感に苛まれながら遂行している。これは大したことではないのだ。自分にそう言い聞かせるようだった。何かの目的を成したわけではないのに、いつの間にか自分の所在が帰路の中にあることを実感してからは足取りが少し軽くなった。憔悴しきった昨日の私とは重ならないのだ。君が不連続な存在であるように。リアルタイムとは切り離された君が呪いのように私に刻印されるのだ。しかし残念なことに熟成されていない呪いは致死量ではなかったらしい。それでも君の「よかった」がこれからはずっと愛おしいんだと思う。始まりみたいな終わりってなんだか君みたい。