#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

るるちゃん

毎日毎日誰の得にもならないじめじめした文体で時間を浪費している。今日も同じ。しかし紛れもない事実として、自己が投影されているに過ぎない。

退屈という毒に侵されて死んでしまいそうだ。自殺について考えていたら日が暮れていたし、なんだか他の事に意識がいかなくなっていた。死については何らかの重層的な運命が決定することであって、自殺を仄めかしているということではない。世界との境界線の引き方が手段としての自殺でなくとも、今不整脈で突然死したとしても本質的には変わりない。何なら事故を装う自殺も容易いのである(視点が他者に移っているが)。死について(あるいはその手段について)考える事は単に生に相対しているだけであるとも言える。生に向き合うことも死に向き合うことも同じものに向かっているのだが、ある意味では生と違って死はパーソナルな問題であるから、自殺を考えるということは生の問題を簡単化して考えるためのモデル化をしているようなものだ。

 

生に対しては時間的に三つの捉え方がある。一つは全ての生きている瞬間は時間的に独立であるという捉え方である。今自殺するということはこれまでの全ての瞬間に対していかなる影響も与えない。生きている瞬間瞬間は全てが独立であって、互いの影響を受けて否定されることも肯定されることもない。生は無力である。この立場では成功はかつての努力の結果ではないし、不幸は罪の結果ではない。偶然だけがその瞬間の生を形作る、ただそれだけだ。従って評価や承認は独立になされるべきだ。どうして自殺者は未来永劫自殺者のレッテルを貼られなければならないのか。生にも着目しなければイーブンではない。故にそれまでの独立事象の中に納得がいくものがあればどこかで区切りをつけられるのだ。

しかしここで自制心の問題が付き纏うこととなる。自殺ということを思慮におくと、時間的に続行することをあえて選択することもまた可能となる。未来への信託を捨てて、そこまでで納得出来るのかという問題である。これには諦念が必要となる。自分の限界を感度を持って知ることが出来るならば、自殺というのは妥当な選択肢となる。ここでさらに自分の限界を知ることは可能であろうかという問題も浮上する。自分の限界を知るというのは推論を用いなければならない。帰納法でも背理法でもいかなる論法でも良いのだが、自分というものの輪郭を的確に判断できるだろうか。人間というものが時間的にも空間的にも有限な存在であると仮定するならば、限界値は解として存在するはずである。解としてそれを見極められたならば、ようやく自殺という自らの手による死の決定手段に着手する合理的理由が与えられる。そして、そこで区切りをつけるという自制心を働かせる事ができるかという問題もある。自らの判断に修正を加えないことができるだろうか。自己正当化のバイアスとの闘いでもあるし謙虚さとの闘いでもある。

二つ目は生は死に至るまでの全体が一つの連続体であるという捉え方である。一定の因果に対する解釈に基づいて生と死を規定するのである。こちらもある時点での妥協が必要となるが、自殺に対する因果の遡及を免れない。未来への信託を捨てて諦念でもって生を時間的に区切りを付けるというところまでは先程と同じだが、死についての理由付けが求められるという要素が強くなる。内向的にも外交的にも自殺者というレッテルを貼られることに耐えなければならない。この点に対する諦念あるいは積極的な意識を持っていなければならない。

自制心に関する問題も先程と同じであるが、自殺者というアイデンティティに耐えうるかという別の意味での自制心も発生することになる。これを諦念でもってかろうじて正当化するのか、あるいは積極的に自殺までの一連の生として昇華させる(もしくは生を踏み台にして死を昇華させる)のかという選択肢が生まれる。前者では先程とほとんど同じ議論になると思われるが、生と死を一つの連続体として仮定している以上、死を語られることなく生を語られることはなくなるだろう。自分の限界というものが後から自殺という事実によって修正されることを免れない可能性が高いという危険性があることを覚悟しなければならない。後者は自殺を肯定的に利用するという形をたることだ。生に対して大きな意味付けを与えずとも、死に対して(特に積極的に行う手段としての自殺という行為を強調して)だけ意味を与えられれば良い。とはいえこれは究極である。生と死が独立していないという立場上、逆に死に対して生の重み付けが絡んでくる。大したことない生の経過を自殺によって燦然と輝かせる方法とは。あるいは自殺によって生を輝かせるような生き方とはどのようなものだろうか。これらは少し危険を伴う探索テーマなのでこれ以上ここには記載しない。出来るようなこととして思いついてもいない。自殺を肯定的に(あるいは逆の逆?に否定的に)捉えられるかというテーマは、死についてメタ的に認知できることも含めて、人間という自殺をひとつのアイデンティティとする生物の本質ではないだろうか。

最後に三つ目は永続的に存在する有機体の一部が自分の生であるとする捉え方だ。自らがこの肉体を持った個体として存在する必然性がない。永続的に存在する有機体とは魂と換言しても良い。肉体的な自殺というものがあってもなくても、魂が必然的に存在した時点で永遠の中では些末なものである。いずれにしろ生は時空間的に全体の一部分でしかない。自殺しようがしまいが生が全体の中の一部分であり、必然的に何らかの見えざるものによって決定されていた全体に影響を及ぼすものではない。従って部分集合たる生は任意に決定されたものであるのか、作為的に決定されたものであるのか、自殺によって作為に介入することは可能であるのか、ということが問題となる。前の二つについては知る由がないが、最後のものは自己暗示によって決着することもできる。仮に作為的であったと仮定するとどうであろうか。作為的に決定されたものであるということは人生に何か意味があるかのように思わなければならない。自殺する瞬間においても自らの意思とは関係なく意味を与えられる。生は自分の手の届かない領域にある自然なものとして定義しなければならない。意味は何らかの作為によってもたらされるので介入の仕様がない。しかし自殺によって生の意味を改変させられる可能性があるという点によって、自殺をすることで作為に介入する手立てとなるかもしれない。自殺だけが生に意味を与える契機を付与してくれる。

このように自殺への理由付けはかなりの困難が伴う。だからこそ無為な指向は自殺に向かってしまうのだろうか。本当は誰かに殺される自殺も存在する。理由をもって生を受けた訳ではないのに、死に理由付けなんて要らないとは思う。ごちゃごちゃ考えても無駄なのは解っているけれどこんな表現しかできない。この世界とのギリギリの接点。