#生きる練習

日常系ゆるふわ思い付きブログ

可観測性コンプレックス

「《低身長》の人はそのコンプレックスをバネに努力している」

「《低身長》“でも”良い」

 

そんな優しい言葉があるなんて…

 

私は《低身長》であるという自覚はあるものの、それほどコンプレックスとは思ったことはない。《低身長》ゆえの実生活上の不便さには事欠かないが、個性のひとつくらいにしか思ってこなかった。どちらかというと、一定のレベルまでは仕方のないことだが、ベルカーブに基づいて設計されている製品や仕組みや制度に対して不利益を被ることに対して自分ではなく世界の方に怨念をぶつけながら過ごしてきた。当事者意識がない人には想像できるかはわからないが、服屋に行っても欲しいサイズがひとつもなかったりすることはざらにある。着たい服で自分を飾るという権利すら奪われる辛さ。実際、これ以外でもベルカーブの一定水準よりも外側の方はどこかでスパッと排除される。連続的なところからも除外されて、権利を剥奪される瞬間は結構精神的に来る。スポーツにおいても体格による差は当然あり、メリットはほぼ皆無である。

それでも単純に個性として消化してきていたし、自分が悪いとは絶対に思えないので世界の方の設計自体が悪いという方向性で納得していた。どちらかというと、個性として《低身長》でない人間が見えないことも見えると思っていたし、その分広がる世界や考える余地もあって、どちらかというと良い意味で捉えていた。身長が高い人の人生を送っていたら京大には入っていなかったような気もする。ここに自己否定はなかった。

しかし、マッチングアプリを始めるとどうやら世界がそういった自己完結で済まないらしいということがわかってきた。マッチングアプリは自分が見てきた世界に向き合うという作業を強いてくる。と同時に私自身も他人が見てきた世界と向き合わさせる。そこでは明確な線引きと排除があるし、それはどうやら当たり前のこととして是認されているらしい。かくいう私自身も《低身長》を定義している以上、明確な線引きはしているし、他の性質についての線引きも排除もいくらでもしていることに気付かされる。かといってどういう目線で人を判断すべきかもわからない。《低身長》という自分の性質を軸に意識してはじめて、深層で眠っていた線引きと排除の自意識に気づく。自分への見られ方という仮想を通して、自分が他人をどう見ているかという現実が可視化される。私が誰かをその人の性質からどういう人だと見るかによってその人が形成される。話を戻そう。視点の方向を逆に向けると、誰かが私を《低身長》だと見ることで私が《低身長》になる。誰かが私を“《低身長》というコンプレックスを抱いている”と見ることで《低身長》というコンプレックスを抱いている自分が形成される。そして、その認識は実際にコンプレックスとして私の元に返される。

デメリットはあるもののそれでもメリットもある個性として思っていたのにいつのまにかコンプレックスにさせられていた。他人の観測にも揺るがないような絶対的な性質はいかなるものも持ち合わせていないので、どの性質もいつどのように貶されるかわからないし他人の性質もいつ貶すことになるかもしれない中で生きていくんだろうなと思うと死にたくなる。

世界を怨むだけで済むならどれだけ楽だったことか。

自分の深層で眠っていた意識とともに、ちょっとまだグチュグチュの傷口、、

 

 

《X》,X∈性質(任意)