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日常系ゆるふわ思い付きブログ

性差

愛やセックスは何故存在するのか。合理的解釈が存在するという仮定そのものが不適切であるのかもしれないけれども。

少なくとも本質的には快楽のためでも遺伝子継承のためでもないのではと思う。もし遺伝的継承が目的であればセキュリティチェックにしてはセックスに必要な愛はたいそう大袈裟すぎないだろうか。

直感としか言いようがないけれども、生物としての性差にヒントがないだろうか。

男性というのはその生物的特性から受胎しない。

女性というのは生物的特性から受胎期間、不妊期間がある。

男性の遺伝子的戦略としては遺伝子継承の機会を増やすことである。不妊期間というリスクを持たない男性の戦略としては数を求めることになる。

一方で不妊期間のリスクを持つ女性の戦略はというと、とにかく質にこだわらなければならない。端的に下手な配偶者と遺伝子の交配を行う時間は遺伝子継承におけるリスクであると言える。

つまり量と質を天秤にかける上で男女の遺伝的戦略はまるで違う。要するに、量的戦略が男性性と結びつき、質的戦略が女性性と結びついている。

そして体内でホルモンがバランスしているようにこうした戦略もバランスしているのではないかと思う。一見すると二元的ではあるが内実は一軸上のどこに位置するのかなんじゃないか。

いかなる個体の中にも量的戦略家の男性性要素と質的戦略家の女性性要素が内在しているのではないかと思う。そしてこれはかなり性格という面に現れるのではないか。

まず男性的戦略をもう少し分析してみる。数量を目標として設定するということは逆に言えば一人一人相手を選別する手間を惜しむことである。これは例えば地位や権力、名声を上げるといった手段を取れば良い。つまり自分の存在の大きさを広報すればその魅力に応じて集客力を上げられるので、わざわざこちらから出向いて相手を選別するということはしなくて済む。極端には誰の方向も向かなくて良くて、自分さえ磨いていればよい。これが量的戦略の性格である。

他方、質的戦略というのは厳正に相手を審査する立場である。広報されたものがあればこちらから出向いて審査すれば良い。つまりわざわざ全体に向けて広報する必要はなく、個に対して質基準で相手を見ていれば良い。これが女性性による質的戦略である。

ということを踏まえて身体的な生物上の性差に起因するであろう男性性と女性性の精神的な差異と同質性を認めて、分断ではなく融和する方向に進めればと思う。